今日、知り合いと「幸せ」って何かなと話していた。
まあ、議論それ自体は議論と呼ぶようなものではなく、ちょっとしたおしゃべり。もし、これを議論とすると中江兆民に言わせると「日本人は確固とした主義、主張を持たず、議論は場当たり的で深みのないもの」に近い。

それは置いといて、そのうちの一人はこう主張した。
「今はいくらお金を持っているかではなく、だれにどう評価されるかが重要になってきている」と。評価経済が云々かんぬん。確かに、物理的豊かさではなく誰かとつながっている精神的豊かさを求める傾向が増えているかもしれない。私も「お金があって友達がいない人、お金はないが友達が多い人なら後者を選ぶ」と発言していた。周りの人もそれに同意した。じゃあ、なんで??

ふと思ったのが物理的であれ精神的であれ、人はある一つのことを求めているように感じる。それが「認められる」ことだ。俗にいう承認欲求。

例えばお金(物理的)。そのお金の貨幣価値を用いた等価交換により自分の欲しい物を手に入れる。結果、自分の所有欲求が満たされる。ただ、この「お金→購入→所有」の所有を純粋に求めている人もいるがそうでない人は少なくない。例えば高級車。果たして高級車に乗っている人の何割が本当にその車本来の魅力に魅かれて所有しているのだろうか。多くの人は「高級車保有=高い社会的地位=他人より優れている」と認識している。つまり、高級車を保有することで自分で自身を社会的地位が高い存在と思いたいと同時に、周りの人にも自分が優れている存在だと思われたいのだ。

物理的でない場合はどうか。例えば、誰かに良いことをして感謝の言葉をもらう。その際も、人から感謝され、それは「他から自の承認」となり自分の存在価値を見いだしている。

ここまで物理的であれ、精神的であれ人は他社からの承認を求めていることを示した。これにもう一つの考えを当てはめるともう少ししっくりくる。それが友人Hの政治的力の根源の区分だ。
ところで、あなたは誰の言うことを素直に聞き入れるだろうか。にくたらしいが逆らえない上司?いつも優しい料理教室の先生?愚痴ばかりの彼女?10年来ファンの好きな俳優?言葉に心がこもってない政治家?

彼によると人が他者の話しを聞き、他者を認める際の状態として以下の4つを提示した。それが「魅力、説得、脅し、暴力」だ。

①魅力は自分が他者を進んで認め、受けいれる状態。
②説得は自分から進んで認めないが他者に納得させられ自分の意志で他者を受け入れる状態。
③脅しは自分が臨まないことを他者の言葉で誘導され、自分の意志なく他者を受け入れること。
④暴力は自分が臨まないことを他者からの物理的身体的暴力により、自分の意志なく他者を受け入れること。

①から④の具体例を考えてみよう。
「高校生のあなたは自分で食べようと購買部で買ったクリームパンを一つもっている。そこに次の人達がやってきてあなたは以下の行動をとった。」

①前から気になってるA子ちゃん
:向こうから歩いて来るA子ちゃん。友人からが彼女は今日お弁当を忘れたとの情報があった。あなたは自ら進んでパンを渡す。
②おなかをすかせた友人B君
:お弁当は食べたがまだおなかのすいているB君。今日、大事なサッカー練習があるらしい。一口くれないかと言われ、パンを半分渡す。
③あなたの秘密を握っているC君
:秘密を言いふらされたくなかったらパンを寄越せと脅され、パンを渡す。
④クラスのいじめっ子D君
:パンを寄越せと不意に殴りかかってきたので、パンを渡す。

パンを渡した後、同じ行動を自分の意志で行うかどうか、またその時間の長さを調べた際、①が最も長く、続きは②、③、④の順となった。

この考えを先ほどの同意を得た発言に当てはめるてみる。
そうすると貧乏だがお金のない人の場合、その人自身が人間的魅力を持ち合わせた人物であるためと想定する。その人物は他者から自分に魅力があると認識され、また、相手がそう思っている時間は往々にして長くなる。(他者に認められる+時間的に長い①)
一方、お金持ちだが友達のいない人の場合、お金を持ってる=魅力的と考える人なら上述と同じ認識をするだろう。しかし、お金を持つことがその人の魅力になると考える人はそう多くないはず。それを考えるとお金持ちだが友達のいない人は他者に自分を認めさせる際、その人自身のパーソナリティでないお金で相手を説得させる、あるいは社会的地位を濫用した脅しを用いて相手に認めさせる手段に出るかもしれない。しかし、継続時間は①より短くなる。(他者に認められる+時間は短い②、③)

ここまで長々と書いてきたが、はじめの私の意見に同意した人の認識として以上の考えが想定されていたのだと感じた。もちろんこれはその人が、「私も後者を選ぶな~」と言った理由の一つに過ぎないかもしれないが、しかし、彼・彼女の答えの一部を作り出す際の認識となっている。
先週初めて大相撲観戦に行った。
今までなかなか叶えられなかったことの一つだ。

これまで、自分と同年代で相撲を好きだと言ってる人に会ったことがなかった。
結果、誰を誘っても来ないだろうと一人で行くことにした。

両国国技館に到着して、館内に入場。
広い入口ロビーを抜けゲートをくぐりメイン会場へ。
やはり、初めての場所や体験はどきどきする。
自分の席はマス席A。もともと購入していたチケットは会マス席B(あい席ならぬ会マス席)だったが、土俵により近いAが空いているとのことでその席にしてもらった。もちろん値段は変わらず。(ただもとの席でも一人11000円とかなり高額)

とりあえず席に座って、2、3取り組み観戦しつつ、周りのお客さんも観察。
みんながどのように相撲を楽しんでいるか観察することで相撲観戦初心者の自分の参考にさせてもらおう。
観客の年齢層は予想通り年配の方が多い。皆片手にビールや白鹿を持ち、好きな関取がでるとはっぱをかけたり、文句たれたりしていた。中には行司の呼び出しを大声でまねする人まで。これがかなり似ていて、周りから拍手が起こっていた。

この観察から、お酒を飲んで酔っぱらうことが相撲観戦の必須条件と確信し、ビールを購入し飲むことにした。実際ほろ酔いでの相撲観戦は最高だった。

ところで肝心の相撲はどうだったか。
今回の見所は沢山あり、取り組みもかなり期待大のものが多かった。
新大関琴奨菊、稀勢の里、その他大関陣、特に全勝の把瑠都。
しかし、一番の取り組みはやはり横綱白鵬。
新大関稀勢の里を押し出しで白星。

彼の相撲を見て感じたことは、横綱としての強さはただ力が強いだけではないということだ。
力ををつけると同時に、それの力を用い、自分の得意な技を磨き、そして心が乱れていてはそれを達成できない。いわゆる「心・技・体」。これを自覚的に意識し、そして実践できる凄さがある。誰しもがこれを言葉として知っているが、それを継続的に実践できることの壮絶さは計り知れない。想像の域を脱し得ないが、やはり横綱の力だけではない強さを感じた。


最後に少し前の名勝負
あと4日で新しい年だ。明日から、地元大阪へ帰郷する。
今年はどんな年だっただろう。
そんなことを考えてみた。

これまでの人生で、一年をじっくり振り返ったことはない。
では何故、その考えにに至ったのか。その答えは、今年(正確には今年度)が自分が学生という立場でいれる最後の年になるからだ(今後、留学や大学院へ行かないと仮定した場合)。「学生になりたかったらまたなれる」「人生常に学び続ける学生みたいなものさ」という議論は横に置き、一般的社会的位置付けの「学生」でいられるのは次の春までだ。自分の20数年間いた学生という立場とは違う世界に飛び込んでいく。現実は現状の継続なのかもしれない。違う世界という発想自体がまだまだおこちゃまなのかもしれない。ただ今の自分は不思議な気持ちに溢れている。希望、不安、熱意、緊張、夢など様々なfeelingsが生まれたり、消えたり、そしてまた生まれる。

そんな中で今年を振り返って気づいた、あるいは気づいていたが見ないフリをしていたこと。
自分はあまい。

完全にあまい。就活していたときにいつも口にしていた「昨日より今日、今日より明日」。
この言葉を多くの大人達にぶつけてきた。みなそろって「確かにそれはいいけど、現実そんなこと気にしてられないよ、自分のことでいっぱいいっぱいだし」と。それって自分の人生に真剣に向き合ってないからじゃないのと思った。真剣に向き合ってると、自ずと日々の成長を意識するようになるはずと憤りも感じることがあった。

ただ、就活が終わってから、自分が口にしていた言葉のような日々を送れてたのかなと。送れてない。たまに、何も考えず、ぼーっとする日も必要なのは確か。ただ、どことなくなんとなく時間を過ごしてきた。時間は待ってくれない。時間の矢理論のように、三次元空間とは異なり一方方向(未来)にしか進まない。戻りたくても戻れない。それを意識せず、どれほどの時間を過ごしてきたかを考えると恐怖さえ覚える。

その日その日、その一瞬その一瞬からの学びから、自分がどう前とは違う自分になったかを、意識的に自覚、認識することができていなかった。家でぐだぐだしていたのを自己批判している訳ではない。2ヶ月の一人旅もしたし、ダンスもした。旅行や、夏の海イベントもした。いろいろやったが足りない。まだ自分の限界に達してない。限界に達することが目的ではなくて、成長するために限界に挑戦する必要があるからだ。

話しが飛びまくったが、一年のフリかえりで、自分はあまいことに気づき向き合う機会となった。しかし、それに満足してはいない。向き合ってハイ終わりじゃ意味がない。
じゃあ、何をすべきか?考えることをやめない。現時点ではそれしかないと思う。具体的にやるべきことが決まってなくても、常に日々考える必要がある。決して、考えることをやめない。
考えて考えて考えまくる。ただ考えるだけではなく、考えることに満足するのではなく、正しく考えることも必要だ。その正しく考えるスキルを自分はまだ持っていない。ただ、いきなりその方法を教えられたとしても、自分のものにできるとは限らない。今はひたすら考え抜くこと。たとえそれが正しくても間違っていたとしても。
それが今の自分にできることだ。

一年の振りかえりでふとそんなことを考えてみた。
最近、宇宙に関する情報にふれる機会があったので、今回はそれに関して。
まず、私は昔から宇宙に興味があった。
なぜか?

哲学的表現を借りると「なぜ私はここにいるの?」と、小学生の時分に考えることがあったことと関係しているのではと感じている。
その疑問を考えると次に「なぜ宇宙は存在するの?」に行きつく。

自分がここに存在すると仮定すると、その自分が存在している場(宇宙)が必要になる。じゃあなんでその場は存在するのと思ってしまう。子供ながらそれが不思議だった。自然と物理も好きになった。そんな訳で高校卒業の進路を決める際、担任の先生に宇宙を学べる進路に進みたいと漠然と相談したこともある。

しかし、実際は文系の学部に入学。自分の興味の移り変わりの多さが原因だ。(自分の大きな短所)

ただ、昔好きだったものは再び好きになる可能性が大きいと最近感じる。(企業の商品マーケティングで「古新しい」商品が人気を博しているのも、人の趣向が向かう先が過去自分が好きだったもの、良い思い出として残っているものに符合、付随する現れ?)
結果、大学に入り学部とは全く関係ない宇宙の本を読む機会は多かった。専門的ではなく、一般読者向けの書籍だ。
ただ、実験科学であるため、多くの数式や理論に出くわす。それらに対する理解のない私には宇宙語を読むようだ。しかし、数学や物理に関する細かい知識、詳細は分からない私と宇宙を研究する科学者と共有している部分はある。「なぜ私はここにいて、なぜ宇宙は存在するのか?」という疑問を解き明かしたいという気持ちだ。私の考える「私」はやや哲学的側面が大きいが、宇宙に関しては物理的、数学的理解を好んでいる。

それが、一般相対性理論、量子力学、ひも理論、四つの力(重力、電磁力、強い力、弱い力)を用いた統一理論に興味を抱く要因だろう。

この自分と研究者の関係は、暗闇の中で自分が何故、そしてどこにいるのかを知りたい私と、暗闇の中でもいつか自分達の位置を把握し何故、そしてどこにいるかを懐中電灯一つで追い求める探検家のようだ。

この宇宙好きはしばらく消えることはないだろう。
就職活動開始後、Boston Career Forum(BCF)に参加した。(キャリアフォーラムの中にBCFについての記載あり⇒http://www.careerforum.net/?lang=J)
この時期のボストンには世界中にいる日本人留学生が集まって来る。スーツを来たアジア人がいたら、9割がた日本人留学生だ。
安ホテルもかなり事前に予約しないと埋まってしまうほど。実際、私は安宿を予約しようとしたときには既に遅く、結局、一緒に行く友達と少し高い部屋を借りることにした。

と、こんな風に日本にいるときから気合いの入っていない状態でアメリカに向かう当日。

そして、、、、、、、、




飛行機に乗り遅れる。






さすがに焦った。シカゴ経由のボストン行きだったが、レジュメのコピーに時間が予想以上にかかったこと(この経験を基に初めてマイコピー機を購入)+遅れそうなのにお金をケチって特急に乗らなかったため、空港に着いてチェックインカウンターでお姉さんが

「もうご搭乗できません。」と丁寧に言ってくれた。

ありがとう。

そんなわけで、ここからの20分間くらいは焦り度200%。

あーーーー

やばい!

次の日ボストンで面接がある。
なんとかして向かわなければいけない。
そんなとき、さっきのお姉さんが別の便での乗り継ぎ便を見つけてくれた。
追加料金も発生しない。


助かった。
というか、自分の時間のルーズさを最も反省したときだ。(因にこんな目にあっても今現在、改善していない。性分)

結局、サンフランシスコ経由で予定していた時間より5時間程遅れて到着。
夜の9時ころ。

そしてここでもツイてない。
待ち合わせしていたホテルに着いたのはいいが、友達が来ない(NYからバスで来る予定)。電話してもつながらない。

仕方なくフロントのお姉さんに、予約していることを伝えた。
先に部屋に入れるかもと思ったが、友達名義で予約していたため、本人のクレジットカードがないと無理とのこと。

ホテルもモーテルみたいな小さいところで、ロビーに椅子が少しある程度。
座って待つことにしたがさすがにロビーでガン寝することもできず、半分意識を飛ばしながら(というか睡魔に襲われているだけ)、しかし半目の状態を保つ技を身につけ友達を待つことに。
結局、午前3時に友達が到着して部屋に入れたがもうくたくた。

そこから3時間の睡眠をとり、当日に向けた準備を開始。
ただ、これまでの流れを見てもらっておわかりの通り、かなりのぐだぐだ感はいなめない。

しかし、ボストンまでわざわざ足を運んで何も持たずに帰国するのはもったいないと、怒濤の集中力を発揮し面接対策を練りに練りまくった。
これまでのツキの無さを考えると、これからツキが回ってくるような気もしていた。
よし!これならいける。


面接当日。








一回戦敗退。


ツキはそもそもなかった。
一社目は仕方ないと、切り替えて望んだ二社目。


二回戦敗退。


それに続いたその他も、一二回戦で敗退。

このボストンで得たことは一体なんだったのか。
この辺りから、きれいな女性はいないかと目を向ける先が企業ブースから女性へと移ってしまった。

「まあ、こうゆうこともアル」と思えたことが今回得られた収穫かな。
まさに開き直りだ。

クラムチャウダーを食べた程度で、とりわけ大きな出来事もなく帰国の途へ。



ただ、このボストンが全く無意味だった訳ではない。なぜなら、自分で気づいたことが2つあったからだ。


1つ目が自分自身について知らなかったということ。自分のことなんだから、全部分かるでしょうと言われそうだが、自分が本当にしたいこと、したくないこと、考えていることに関して理解しているようで理解していなかった。これは、誰しもに起こることだろう。例えば犬と猫どちらが好きかと聞かれて、犬だと答えたならば、犬が好きな理由があるはずだ。そして、その理由の中にもさらに理由、背景がある。良く言われる「whyを5回繰り返す」によって、自分の依拠している価値観や考えにたどり着く。
そんなことも全く考えず面接に臨んだのだから、自分のことについて全く答えられない、自分でも適当な言葉が見つからない、分かっているようで分かっていないことだらけだった。そもそも、自分が何に価値観を置き、どのような生き方をしたいかを把握せず、仕事を見つけて働いていても、そこから得られるものは限られるだろう。


2つ目が日本的?の就職活動が自分には合わないと感じたことだ。同時期に、一斉に同じ服装をした集団が溢れかえっている姿がどことなく異様に思えてしまう。アメリカでは個々人それぞれのタイミングで仕事探しを始める。大学は入りたてのときから始める人もいれば、卒業してまずはインターンとして働き始める人など様々だ。つまり、自主性が求められる。誰も仕事探しを始めろとは言わない。その代わりに、周りの人々や環境や、自分のやりたいことを明確に持っていることが自然と自分のやりたいことを考え、それが行動へとつながる流れがあるような気がした。一方、日本では「この時期に就職活動をしてください。それをすぎると一年また待たなければいけません。」となっている。日本の大学生に自主性がないとは言わないが、半ば強制的に仕事を見つけろと言われてるように感じる。結果、皆が必死に仕事を探すが、そのときの軸とするものが会社の大きさや、給料、社会的な位置づけ、極端だと会社説明会の雰囲気のみで選ぶ人が大半だと思う。そして、仕事を始めてようやくこんなはずじゃなかったと気づく。なぜなら、自分がどういった人間か理解せず表面的な理由のみで仕事を選んでしまったからだ。


と、こんな風に「オレは世の中のことわかってるんだ」的な感じで話しているが、自分でもまだまだ何も分かっていない。
ただ、このBCFで上の2つに関して少し(当時はかなり漠然とだった)自分の立ち位置が見つかった。
この考えは今でも変わっていない。