青木コウは、野田リクトのことが気になっていた。
自分の気持ちに、青木は深い疑問を抱いていた。俺の恋愛対象は女だし、性欲を抱く対象だって女だ、それなのになんであいつのことが…彼は自分自身に、困惑していたのだ。
きっかけは、はっきりしていた。あの劇を演じてからだ。
青木は大学の演劇サークルに所属しており、野田も同じサークルの仲間なのだった。つい一ヶ月前の公演で、二人は共演した。『オーシャンズ・ラブ』という、ボーイズ・ラブをテーマにした寸劇だ。
野田は、大好きな彼女にフラれた傷心の男Rを演じ、青木は、そんなRの家に転がり込んできたホームレスの男Aを演じた。過去を大事にするRと、未来に生きるAは、その対照的な性格ゆえに初めは反発し合うが、やがて互いの長所に惚れ込んでゆく。クライマックスで二人はキスをし、自分自身の未来を追うためにRが長い旅に出る、という結末を迎える。
AとRがキスをした…ということは、とうぜん青木と野田もキスをした、ということで。
練習の際は、キスをする振りをするだけだった。キスはぶっつけ本番、たった一度だけ。その一度に全ての情熱を込めれば、この劇はこれ以上ないほど良いものになるはずだ…そんなふうに、この劇の脚本を書いた長野ワカバという女生徒が言ったのである。そして、その一度きりのキスで、青木の中に何かが芽生えたようだった。
野田の唇は柔らかかった。荒い息遣いの中、青木はアドリブで野田の肩を強く抱いた。身体の中で何かが膨れ上がり、その興奮はおさまらなかった。なんとか劇を続けるために唇を離したものの、野田の唇の感触がいつまでも離れなかった。クライマックスが終わって舞台袖に一度 引っ込んだとき、青木は心底ホッとした。彼は勃起していたからだ。
青木と野田はともに一年生で、そこそこ話したり笑ったりする間柄だが、特に親友というわけではない。互いに、もっと親しい男友達はサークル内にたくさんいた。それでも、劇が終わってからというもの、野田が他の男や女と楽しげにしゃべっている様子を目にするたびに、青木の胸はざりざりとうずいた。
野田は特に、長野と親しかった。そう、青木の運命と性癖を狂わせた張本人の脚本家である。
野田に妙な感情を抱くまでは、青木は彼女を嫌っているわけではなかった。そもそもあまり話したことがないので、好きでも嫌いでもない存在、ただのサークル仲間という認識だった。しかし今では、青木は彼女をライバルとして見ていた。そんな自分に思わずぞっとし、慌てて首を横に振る。
…よし、青木コウ、落ち着け。これは一時の気の迷いだ。性欲だ。一回キスしたからって、ノンケの俺が男を好きになるなんて、そんなことは…何度も自分に言い聞かせるが、ひとたび野田の姿が目に入ると、そんな言葉はなんの意味も持たなくなってしまうのだった。
そんな青木ら演劇サークルは、すでに次の公演に向けて準備を始めていた。そしてあろうことか、青木はその公演で、野田とともに音響係をつとめることになってしまった。
野田ははじめ役者係を希望していたので、音響係なら野田の近くにいる必要もなくなると大いにホッとし、青木は以前から少し興味のあった音響係に立候補したのだ。ところが数日後、野田がつかつかと青木の前までやってきて、こう言うのである。
「青木。俺、お前と音響やることになったわ。よろしくな」
「…は?」
聞けば、野田が希望していた役は人気が高かったらしく、オーディションがひらかれたというのだ。野田はそれに落ちてしまい、音響係を任されることになったらしい。
青木は思わず、その場で頭を抱えそうになった。なぜ。なぜ、このタイミングで…。
「青木?」
野田に顔をのぞき込まれ、思わず「ひっ」と情けない声が出てしまう。青木は顔が熱くなるのを感じた。
「どうした? 大丈夫か? なんかお前、変だぞ?」
「えっ…いやいや、大丈夫、大丈夫」
「ほんとにー?」
「ほんと、ほんと。じゃ、音響どうし、よろしくな」
「ああ」
野田はいつものように愛想よくうなずくと、すたすたと去っていった。バクバクと音を立てる心臓を押さえて、視界のはじに野田を捉えれば、もう長野と一緒に楽しそうに何か話している。その瞬間、胸が焼けこげるように熱くなり、頭の芯が一気に冷えた。
…なんだよ。野田、お前はなんでそんな平気なんだよ。なんで俺だけドキドキしてんだよ。なんで長野はこんなに俺を振り回すんだよ。なんで野田と俺が音響なんだよ…。
「あーあ。音響、やりたくねえ…」
演劇が大好きなはずの青木は、生まれて初めて次の公演に絶望を抱いたのだった。
完