こんにちは、あすなろまどかです。今回は、小説『雑草物語』の後編です。
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☆ ☆ ☆
ある日、トモは小説の取材を受けることになったため、久しぶりに風呂に入り、ボサボサの長い髪を短く切り、ちゃんとした服を着た。するとどうだろう、トモはあっという間に、四人の女の中で一番の美女になった。まるでブロンディのデビー・ハリーの髪と目を黒にして、顔を日本風に近づけたような容姿だ。
美しいトモを見てマヤはますますイライラしてしまい、次の瞬間、こんなふうにトモを怒鳴りつけてしまった。
「もう、なんなのよ、あんた。なんで何をやってもそんなに上手くいくのよ!」
「マヤは、どうしてあんなに怒ったんだろうねえ」
午後のティータイムを楽しみながら、休憩中のトモはのんびり言った。
「知らないわよ。あの子、意味分かんない」
ニコルは当の本人のトモより腹を立てている。
「私は、ちょっと分かる気がする」
チカはそう言って、紅茶を一口すすった。
「分かるって? マヤの気持ちが?」ニコルの問いに、
「気持ちっていうか、マヤが怒った理由だよ」チカは答えた。
「なに、なに?」
「マヤはね、小学生の頃から小説家を目指してるんだよ」身を乗り出すニコルに、マヤの幼なじみであるチカは言った。「あの頃は、お互いに書いた小説を、よくマヤと読み合ってたな。懐かしいな」
チカは一息つくと、「すまん、話がずれたな」と言った。
「まあとにかく、マヤは小説を書くのが大好きだけど、一度もコンクールに入選したことないからな。飛ぶように小説家デビューしたトモが、羨ましかったんだと思うよ」
それを聞いて、トモは心底興味がなさそうに「ふうん」と言い、ニコルは顔をしかめて「何よ。そんなのただの八つ当たりじゃない」と言った。トモは空になったティーカップをキッチンの流しに置いた。
「じゃあ私は、また部屋に引きこもることにするよ。四コマ漫画とエッセイの締め切りが迫ってるんだ」
そう言って階段を上がっていくトモを、ニコルとチカは「行ってらっしゃい」「頑張れ!」と見送った。それから少しして、チカはニコルにこんな提案をした。
「なあ、ニコル。私たちってさ、普段あんまり二人で過ごすことないよな。たまには、一緒に散歩でも行かないか?」
「いいわね」ニコルは笑顔でうなずいた。「確かに、チカと過ごしたことってないかも」
「私は旅に出てることが多いし、ニコルは大学の勉強とか研究で忙しいもんな」
「そうねえ。ようし、それじゃ行きましょ。まだ日暮れ前だし」
チカは「おう」と答え、二人はオレンジ色の夕焼けに包まれた外へ出た。
二人は、しばらく黙って歩道を歩いた。左側の車道には様々な車種がぶんぶん走り、その音は二人の耳に心地よく響いた。ニコルとマヤの真名華(まなか)大学の校舎の屋根がちらりと見える。その屋根の上の東の空は可愛らしい桃色だが、西に行くにつれてどんどん水色になっていき、その奥はすっかり濃い青色になっている。ニコルが「綺麗ねえ」と言うと、「ほんとだなあ」とチカは答えた。
やがて、二人は小さな児童公園へやってきた。砂をじゃりじゃりと踏み、豊かな緑の中を歩きながら、二人はどんどん影を伸ばした。ニコルのサンダルに、少しばかり砂が入り込んだ。二人は黙りこくったまま、ゆっくりゆっくり歩いた。
自分の足元を見たまま歩きながら、やがてニコルが口を開いた。
「マヤのことだけどさあ」
「うん」チカも、足元に目を落としたまま返事する。
「あんなふうに悔しがってる暇があったら、どんどん書けばいいのにね」
その言葉に、チカはサッとニコルを見た。ニコルはそれに気づいたが、チカの方には顔を向けずに返事を待った。
「マヤは昔から、悔しくなったらその気持ちにしかなれなくて、他のことが何もできなくなるんだよな」
これがチカの返事であった。優しい声であった。ニコルがようやくチカを見ると、チカはいつものように、静かに微笑んでいた。
ニコルはその微笑みから目をそらして再び足元に落とすと、「それがイライラするのよ」と言った。チカは少し考えるように「うーん」と言うと、ニコルを見たままこう聞いた。
「ニコルは、マヤのこと嫌いなのか?」
ニコルが、再びチカを見た。さっきより素早く、さっきより驚いたように。なるほど確かにその青緑の綺麗な瞳は、大きく見開かれていた。けれどもチカの表情は変わらない。さっきのように微笑んだままだ。
「嫌いっていうか、」ニコルはしばらく目を泳がせながら言葉を探していたが、やがて素直にうなずいた。「うん、嫌いね。私、ああいうふうにウジウジしてる人が嫌いなの。それで、トモに八つ当たりするし」
「ニコル」
チカは、少したしなめるような調子でニコルの名を呼んだ。ニコルはどきりとして、「あ、ごめん。ちょっと言いすぎた」とあわてて言った。
「いや、私は別にいいんだけどさ。でもマヤは、お前が思ってるほど悪い奴じゃないぜ」
「悪い奴じゃないのは分かってるけどさ…」
どこか不満げにうつむくニコルを見て、チカは再び優しく言った。
「なあ、ニコル。私たち、なんで四人で暮らしてるんだと思う?」
「なんでって、」ニコルは、少し驚いたように答えた。「私とマヤが大学で意気投合して、シェアハウスしようってことになって…それで私がトモを呼んで、マヤがチカを呼んで…それで、四人で一緒に暮らし始めたから」
「だよな。一番はじめはマヤとニコルだったわけだ。お前ら二人が仲良くなったから、いま一緒に暮らしてるんだ」
ニコルは、ハッとしたようにチカを見た。
「意気投合したってことは、一緒に話して楽しかったってことだろ。お前はたとえ一度でも、マヤと過ごす時間を楽しいと思ったんだ。マヤを好きになったんだよ」
「そうだけど…」ニコルは再び目を伏せた。「一度気が合っただけで、それがいつまでも続くとは限らないんだから。特に一緒に暮らしてたら、相手の嫌な部分もいっぱい見えてくるし…」
「だからこそだよ。いまのお前には、マヤの嫌な部分だけが見えてるんだ」
チカは立ち止まると、そこから見える道路を指さした。
「あれ、見てごらんよ」
「ん?」ニコルはチカの指の先をじっと見つめた。
「いまさ、こうやって車がいっぱい走ってるだろ。意識しなけりゃそれだけで済むんだけどさ、そうだなあ、たとえば「ああ、やっぱり都会はトラックが多いなあ」って思ったとするだろ。そうすると、トラックばっかり目につくようになるんだよ」
ニコルは少しして、「ほんとだ」、と少し驚いたように言った。
「な? いまのニコルはこれと同じさ。マヤの嫌なところばかりが目についてる。そりゃあ、自分の親友に八つ当たりした相手をよく思えない気持ちは分かるよ。だけどさ、マヤだって、小説家を目指してずっと頑張ってきたんだよ。それはマヤのいいところじゃないか」
「確かに」ニコルはうなずいた。
「それにさ、自分の親友を悪く言われて、少し傷ついたのは私も同じだ」
そう言われて、ニコルは少し頬を赤く染め、小さな声で「ごめん」と言った。
「いや、いいよ。それに、自分の親友のトモのことで、本気でマヤに怒れるのは、ほんとにトモを大切に思ってる証拠だ」
「うん」ニコルは微笑んでうなずくと、付け加えた。「私の言葉で傷つくチカも、マヤのことをほんとに大事に思ってるよね」
「うん、ま、そうだな」チカは、少し照れくさそうにうなずいた。
それから少し沈黙があり、気まずくなったチカがそれを破った。
「まあ、今日か明日にでも、ちょっとマヤと話してみたらどうだ?」
「話してどうにかなるのかしら? マヤの気持ちが軽くなったり、私がマヤを好きになれたり?」
「それは分からないけど、やってみないことには仕方ないだろ」
チカの優しい顔に、ニコルも「うん、そうね」と穏やかにうなずいた。
二人は微笑み合った。そして、いつしかすっかり藍色に染まった空の下を、静かに歩いて家に帰った。
その日の夜、チカはどこかへフラッと旅に出た。それからしばらくして、ニコルがマヤの部屋の扉をノックした。
扉が開き、マヤとニコルの目が合う。マヤはひどく不安げな顔をしており、その色は青白かった。
「ちょっと話したいの。下のダイニングに来てくれる?」
ニコルの問いかけに、マヤは無言でうなずいた。
二人で静かにトモの部屋の前を横切り、階段を降りる。テーブルを挟んで向き合って座り、ニコルはマヤを見た。マヤはうつろな黒い目を伏せて、テーブルの下で組んだ自分の両手をぼうっと見つめている。
「ねえ、マヤ」そんなマヤに、ニコルは声をかけた。「あなたは結局、何を悩んでるの?」
マヤはしばらく目を泳がせていたが、やがて、はっきりこう言った。
「私、小さい頃から小説家になりたかったの」
「知ってる。チカから聞いたわ。それで、マヤより先に小説家になったトモに腹を立てたんでしょう。それがあなたの悩みなの?」
「ううん。悩んでることは他にもある」
「なに?」ニコルは、なるべく声に棘が立たないように尋ねた。
「小さい頃から夢があってそれが変わらないのは、悪いことなんじゃないかって思うんだよ。高校まで、クラスのほとんどの人たちが夢がなくて悩んでた。でもその人たちには夢の代わりに友達がたくさんいた。だけど夢があるのと友達がいるのだったら、やっぱり夢がある方が恵まれてるんじゃないかって思うの。だって夢があると未来が見えるから…」
ニコルが何も言わないので、マヤは続けた。
「もしオトメとユウタに夢が見つからなかったら、私はさらに罪悪感に苛まれる。大学に行かなきゃと思ったのも、ちょっと二人が関係してるの。自分が大学受験をしなかったのに、妹と弟が必死で大学受験に向けて頑張ってたら、私はオトメやユウタより頑張らなかったことを一生後悔すると思った。それに、もう一生、二人の隣に並べないと思った」
「生きるうえで頑張るのは受験のときだけじゃないわよ」ニコルが口を開いた。「自分で小説を書き続けるのだって、「頑張る」ってことなんだから」
「違うよ…トモみたいに結果が出るならまだしも、ただ書き続けるなら好きなことをしてるだけだよ」
「じゃあ「ただ」をやめればいいじゃない。色んな人に楽しんでもらうために工夫して書けばいいじゃない。それから、結果が出ないなんてどうして分かるの? トモだって、やってみたから結果が出たのよ」
「やったよ! 何回も投稿したけどダメだったんじゃない!」
「じゃあ何万回も何億回も投稿しなさいよ! とにかく、そうやってここで愚痴をこぼしてる間に一行でも書きなさいよ。ああ、イライラする!」
ニコルはかなり頭に来ていたが、優しいので、さらにこう言った。
「あなたはなにもかも中途半端なの、マヤ。本当にオトメやユウタのことを想うなら、しっかり自分の未来を見るべきなのに」
「分かってるよ、そんなこと! でも考えちゃうんだよ。私が大学に行きたがらなければ、私が小説家を目指してなければ、オトメとユウタ…特にユウタ…は、もっと幸せになれたんじゃないかって」
「なんで、そんなバカなこと考えるの? あなたの決断が、ユウタの幸せにまで影響するわけないじゃない。マヤ、あなたは自分のことをものすごく影響力のある人間だと思ってるんだろうけどね、あなたにはそんな力も才能もないのよ」
「自分に力や才能があるなんて思ってないよ。ただ私、大学受験のとき、一般受験をせずに総合型だけで受験したの。研究テーマは「各地方の方言が、作品のオノマトペにどんな影響を与えているのか」。受験日は十月の終わりだった。それが私の不幸の源なんだよ。「各地方の方言」なんて研究テーマにしちゃったからさ、色んな地方に行って研究する必要があったの。十月までは色んな小説や論文を徹底的に読み込んだ。十月に入ってからは、どこかひとつの地方を訪ねることになった。面接のとき、「高校時代は一ヶ所しか行けなかったけど、大学に入ったら他の地域にも出向いて、引き続き調査を行いたいです」って言えるしね。で、私は岩手県を選んだ。私の研究が一番進んでる地域が岩手だったのよ。岩手で聞き取り調査をして、例えば宮沢賢治の作品に出てくるオノマトペがその地域の方言に影響されてるのか、それとも賢治独特の感性なのかを調べるっていうのが目的。それで、うちはパパが忙しくてね、どうしても十月一日しか暇な日がなかったの。だから私たち家族は、私の研究と受験のために、九月三十日の土曜日から十月一日の日曜日にかけて、岩手に行くことになった。だけど十月一日は、ちょうどユウタの誕生日だったの。しかも、十歳の誕生日だよ? 十年って、ひとつの節目じゃん。だからその日はユウタの行きたいところに連れてって、朝から晩まで祝ってあげたかったのに…私の受験のせいでそんな大事な日は潰れたの!」
「じゃあユウタの誕生日の前か後に、朝から晩まで祝えばよかったじゃん」
「やったよ! 私の受験が終わってから、ユウタが行きたがってた遊園地に連れてってあげた。岩手県に行ったときだって、前日の九月三十日の夜にケーキを買って、それを食べながらユウタが観たがってた映画をみんなで観て、ユウタが欲しがってた新幹線のおもちゃもプレゼントした。それから、ユウタはあてっこゲームが大好きだから、家族みんなであてっこゲームをして遊んだの」
「それだけやったならいいじゃない! なに? ユウタは喜んでくれなかったの?」
「ううん。すごく嬉しそうだった」
「ならいいじゃない…何がそんなに不満なの?」
「だって、本当に幸せかどうかなんて分からない。私の目にはそう見えたけど、そうじゃなかったかもしれない。それに、どれだけあとで償っても、私がユウタの誕生日を奪った事実は変わらないんだもん」
ニコルは、はあーっと大きく長いため息をついて、立ち上がった。
「もう、あんたと話すのってほんとバカみたい。あんたがそんなふうに後ろ向きに考えるなら、ユウタも幸せになれるわけないよ。
いい? マヤ。あなたがオトメとユウタを幸せにする方法はない。でも、二人を不幸にしない方法ならある。大学生活と小説家の夢を諦めないことよ。あなたは大学進学と将来の夢のことで、ずいぶん二人に迷惑をかけてきたって言ってたよね。なら大学で学べることをぜんぶ学んで、小説に活かさなきゃ。そして夢を捨てずに、小説家にならなきゃ。ぜんぶ簡単に諦めて、フラフラして迷ってたら、そりゃあ二人にも迷惑だよ」
そう言い残して、ニコルは自分の部屋に去っていった。長く艶やかな金髪が消えたとき、マヤは心臓が握り潰されるように痛かった。
マヤはひとり、いつまでもテーブルに残ってうつむき続け、とうとう日付けが変わるまで、涙もこぼさず電気も消さなかった。
ふと目を覚ましたとき、マヤはそのままの体勢で、早朝の暗い家の中で机に突っ伏していた。と、右肩を突然誰かにたたかれ、ビクッと顔を起こした。
それはマルさんだった。どうやらシャワーを浴びてきたようで、肩にはタオルがかけられ、ちぢれた黒髪は艶を帯び、いい香りのする湯気がもくもくと立っている。
「マルさん…」
「よお、マヤ。なんだあ、ひでえツラして。どうした? なんかあったのか?」
マルさんの優しい話し方に、マヤの涙はさらに滲んだ。マヤは顔をマルさんからそらして、「私、ひどいこと言ったんだよ、あなたの姪っ子に。それから昨日の夜、ニコルに怒られた」と早口で片付けた。
「ひどいこと? トモにか? どんなことだ?」
マヤは一瞬話すのをためらったが、ここまで来られて誤魔化せるものでもないと思い、ことのあらましを全て話した。
「ふうん、トモになあ」全て聞いたあと、マルさんはそう言ってアゴをさすった。「ま、お前はもう少し癇癪を抑えた方がいいとは思うが、それも、あれなんだろ、お前が本気で小説家になりたいゆえの嫉妬なんだろ」
そう言われて、マヤはまた顔をそらしてしまった。一瞬、「フラフラして迷ってたら、そりゃあ二人にも迷惑だよ」という昨夜のニコルの言葉が頭をよぎったが、ついこう言ってしまった。
「んん、それがほんとのことを言うと…よく分からないの、自分でも」
「分からないって、何が?」
「私は小説家になるべきなのか。それから、」これもマルさんに相談しようと思い立ち、マヤは間髪を容れず言葉を続けた。「私は大学に進学するべきだったのかってことも、分からずにいる」
「なるべきかとか、するべきかとか聞かれても、俺は神様じゃねえから分かんねえけどよお、小説家に関しては、なるべきか・ならざるべきかじゃなくて、なりたいか・なりたくないかじゃねえのか」
マヤは「うん。やっぱりそうだよね」と答えた。
「大学に進学するべきだったかっていうのは、変だな。お前は今頃、何をそんなに悩んでるんだ?」
「何を…うん、私って理想主義者だからさ、現実を見つめて勉強したり研究したりする大学は、私には合ってないんじゃないかって思い始めたんだ。ニコルみたいな人には、ぴったり合ってるけどさ」
「ふうん」
「ニコルみたいな研究者とか、チカやマルさんみたいな旅人とか、そういう生き方も考えてみたの。でも、だめ。どれも、なんか違う気がする」
「ふうん…昨日ニコルに怒られたっていうのはなんだよ」
「私ね、マルさん。すっごくウジウジしてるの。それで怒られたんだよ。ニコルは正しいことをたくさん言ってくれた」
そう言って、マヤは昨夜ニコルに言われたことを、つぶさにマルさんに伝えた。
「ふうん…やっぱり、なんか変な奴だな、お前は」マルさんは心底不思議そうな顔をして、それから眉を寄せた。「人間、やろうと思えば…というより、やりたいと思えば、たいていなんでもできるもんだぞ。お前の場合な、やりたいと思うことが少なすぎるんだよ。もっと世界の色んなことやものに興味を持て! それからな、お前は色んなことから逃げすぎなんだよ」
「逃げすぎ?」あまりよく分からず、マヤはマルさんの言葉を繰り返した。
「そう、逃げすぎ。お前は「べきだったか」ってことばっかり言うけどなあ、過去のことをいま言ったってしょうがねえだろう。結局な、お前は過去に逃げてるんだよ。そうするのが楽だからな」
図星を突かれた気をして、マヤはつばを呑み込んだ。マルさんの顔もいつになく真剣なので、マヤは、マルさんはこんな自分に怒っているのではないか、と考えた。
しかし、マルさんはパッといつもの呑気な顔になり、「よっこいせ」と立ち上がった。
「ま、そんなわけだからさ。色々悩むな。俺なんか生まれてこのかた一度も悩んだことねえぞ。自慢になっちまうけどな」
マヤは何も返せなかったが、マルさんは「じゃあな」と勝手に話を切り上げると、背中を向けて片手を挙げ、ガチャリと扉を開けた。白み始めた東の空のかけらが見え、朝焼けの香りがほのかにマヤの鼻をつく。次の瞬間、マルさんはフラッと家を出た。
「マ、マルさん。どこに行くんですか?」
やっと口をきけるようになったマヤがあわてて聞くと、閉まりかけた扉の向こうで、マルさんは「ウン?」と振り向いた。
「知らねえ。どっか」
すっかり空が明るくなったとき、ようやくマヤは自室に戻って寝息を立てていた。トモは相変わらず部屋に閉じこもって作品を書いている。チカは短い旅から帰ってきて、ダイニングのイスに、ニコルと向かい合って座っていた。
「私ね、トモが作家になってから話す機会がなくなったことを、少し寂しく思ってるの」ニコルはチカに打ち明けた。「ほら、前にも話したと思うけど、私とトモって幼なじみなのよ。ずっと、古い付き合い。だから、そんなトモが変わっていくのは寂しいの。誹謗中傷にも悩んでるし。もちろん、ずっと応援していたいとも思うんだけどね」
「そうなんだ。有名になればみんなハッピーってわけでもないんだね」
チカは静かに言って、もし自分の親友で幼なじみであるマヤがトモのような売れっ子作家になったら、自分もニコルのように寂しくなるだろうかと考えた。
そして、マヤとニコルが大学三年生の夏のある日、事件は起きた。チカがいつもの気まぐれな旅からフラリと帰ってくると、マヤとニコルが大いに焦ってシェアハウスじゅうを走り回っていた。
「どうした?」
チカは戸惑い、マヤを引き止めそう聞いた。マヤはチカを見つめ、こう答えた。
「トモが倒れたの」
病院でトモが目を覚ますと、そこにはニコル、チカ、マルさんがぼんやり見えた。トモはムクリと身を起こし、
「ニコル、チカ、おじさん…」
「良かった、トモ! 目を覚ましたのね」ニコルがトモに抱きつく。
「お前、倒れたんだぞ。不規則な生活と栄養失調が原因だってさ。まったく、無理するから…」チカが目を潤ませる。
「あの怠け者のトモが、仕事のしすぎで倒れるとはなァ」マルさんはクックッと笑う。
「マヤは?」トモが聞くと、
「来ようとしてだいぶ勇気を出してたんだけど、難しいみたい」ニコルは切なそうに笑った。
「明日なら来れるかもな」チカが希望を持って言い、
「なんだお前、マヤに来てほしいのか?」マルさんが疑問を持ってトモに問う。
「いやあ、別にどっちでもいいけど」
そう言って、トモは窓から青い空を眺めた。果たして何を考えているのか、ニコルたちには分からない。
三日後。ベッドの上のトモのもとに、ついに四人目の来訪者がやってきた。
「マヤ」トモが言うと、
「おはよう、トモ」マヤは顔を引きつらせながらも、なんとか言った。「体調、大丈夫?」
「うん。ただの栄養失調だから。明日には退院できるってさ」
「そっか。良かったね」言いながら、マヤはおずおずと、ベッド脇の丸イスに腰かけた。「昨日、ニコルたちがお見舞いに来たよね?」
「うん。おとといも、その前も、その前も」
マヤはそっとため息をついて、
「私だけ、何日も行かなくてごめん」
「いやあ、別にいいよ。ただの栄養失調だし」
「うん…」
シンとなった。マヤはすぐにまた口を開いた。
「今日は、私がニコルたちにわがままを言ったんだ。私ひとりだけでトモのところに行かせてほしいって。でも病院に向かってる途中で、やっぱりトモは、ニコルたちにも来てほしかったかなって思ったんだ。ごめん。私だけでよかった? というか、私が来てよかった?」
「別にニコルたちが来なくてもいいよ。嬉しいけど、いつも来てもらうのは申し訳ないしさ。それに、マヤが来るのも別に嫌じゃないよ」
「ほんと?」
「うん」
うなずいたトモの顔は、嘘やお世辞を言っているようには見えなかった。そこで今度は、トモが疑問を持って口を開いた。
「というか、なんでそんなこと聞くの? 私が来てよかったか、なんて」
「いや、だって、ほら、」マヤはそう言ったあと、ふーっと息を吐いて気持ちを落ち着け、「私が…トモに、誹謗中傷の、言葉、言ったから」
一言ずつ区切って言い、うつむいたあと、一瞬の静けさののち、トモが「ああ」と言った。
「別に気にしてないよ。言われたときはちょっとイラッときたけど、誹謗中傷にはもう慣れちゃったよ」
その言葉に、マヤは目を泳がせて「ああ…」とうつむいた。
「それにさ、マヤ、小説家になりたいんでしょ。それで努力してて、隣の怠惰な奴が成功したら、私もたぶんイラッとするよ」
「ほんと?」
「うん。だからさ、お互いさまだよ」
そう言って笑ったトモに、マヤは目を潤ませた。
「トモ、逆恨みして本当にごめんなさい。怒鳴って本当にごめんなさい。誹謗中傷して本当にごめんなさい。そして、許してくれてありがとう」
「もういいって」
トモは笑って右手を差し出した。マヤはその手をしっかり両手で包み込んだ。思いがけず細い手に、マヤは涙をほろほろこぼした。
次の日、トモは無事に退院し、シェアハウスに戻ってきた。マヤがトモと仲直りしたことをニコルたちに伝えていると、トモがマヤにこんな提案をした。
「マヤさ、私が仕事してるとこ見る? 偉そうになっちゃうかもしれないけどさ、もしかしたら参考になるかもと思って」
「ううん、全然偉そうじゃないよ、ありがとう。ぜひ、見せてもらいたい!」
その言葉に、トモは嬉しそうに笑った。その様子を見ていたニコルたち三人も顔を見合わせて、安心したように、嬉しそうに笑った。
その日から、再びそれぞれの人生が始まった。マヤとニコルは大学に行き、トモは部屋に閉じこもって仕事を始める。チカとマルさんは家でゆったり話し合ったり、気まぐれで旅に出たりする。チカとマルさんは二人で同じ場所へ旅に出ることもあれば、それぞれまったく別の場所へ行くこともある。
そしてニコルとともに大学から帰ってきたマヤは、ニコルとともに勉強や研究の続きをしたり、トモの仕事を見学したりする。それすなわち、秀才のニコルと学んで研究し、天才のトモの真髄を見るということであり、それはマヤにとって身を切られるほど辛いことでもあった。自分と相手の圧倒的な差、自分の頭の悪さや才能のなさを、嫌というほど痛感するからだ。しかしマヤはめげずにそんな生活を続けた。なぜなら、その辛さこそが生きる喜びとなり、やがては生きる意味となってくることを知っているからである。(完)