こんにちは、あすなろまどかです。今回は、自作の小説『雑草物語』の前編です。


 忙しくて挿絵を描くヒマがありませんでしたが、もしよろしければどうぞ^^;



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 東京都の中心に、真名華(まなか)大学という有名な私立大学がある。そこから少し離れたところにこれまた建物があり、しかしそれは真名華大学よりずいぶんと小さい。緑の屋根の、こぢんまりした家だ。


 その家には、四人の女が暮らしている。要はシェアハウスというものである。


 一人は名を草壁 真矢(くさかべ まや)といい、この家の住人からはマヤと呼ばれている。少しエラの張った顔、地味な顔づくり、薄い眉毛が特徴の、目立たない女である(目立たないのに特徴があるとは言えないかもしれない)。吊り目で一重で瞳の色は濃い黒で、このように書くとますます特徴がない。肩の下まであるストレートの黒髪を低い位置でひとつにまとめて、目が悪いので黒い眼鏡をかけている。笑うと顔が引きつってしまう。よく食う割には痩せ型で、いつもどこかしら具合が悪い娘である。


 二人目は名をニコル=サラ=マックィーンといい、この家で唯一の外国人である。少し丸顔だが可愛い顔立ちをしており、見た目は誰より幼く見える。目は垂れ目がちで一重だ。吸い込まれそうな青緑色の瞳と、肩の下まである輝くような金髪を持っており、まさしく外国人という風貌である。大きな鼻がコンプレックスと彼女は言うが、実際にはさほど大きくない。ところが彼女はずいぶん気にし、時には鼻を削り取りたいとまで言う。笑顔が可愛く、姿勢がよく、服装はいつもオシャレ。これぞ理想の女だと、男も女も誰もが口をそろえて言う。


 三人目は名を佐久間 友花(さくま ともか)といい、この家の住人からはトモと呼ばれている。ずっと家に引きこもっているため色が白く、吊り目がちで、二重で、瞳の色は黒い。肩の下まであるくせっ毛の黒髪は、乱れてところどころ絡まっている。もう何日も風呂に入っていないため、その髪や身体からは少しきつい匂いがする。よく食ったあとにすぐ寝るせいか、ややぽっちゃりして少々窮屈そうである。猫背で地味な服装で、おまけに少しおどけたような喋り方をする。男は誰も彼女を欲しいと思わず、女も誰も彼女のようになりたいとは思わない。


 そして四人目は名を寒河江 千香(さがえ ちか)といい、この家の住人からはチカと呼ばれている。四人の中で最も顔が小さく、外国人っぽい顔つきをしている。これは彼女の祖母がフランス人で、彼女の顔が祖母と瓜二つのためである。肌は小麦色に日焼けしており、垂れ目で、二重で、瞳の色は茶色だ。茶の髪の毛を男と同じくらい短くしている。病弱のため痩せ型で、他三人よりやや背が低い。しかし、赤や桃色の服は決して着ようとせず、いつも黒や紫の地味な服装をし、落ち着いた喋り方をするので、四人の中で最も大人っぽく見えるのである。


 さてそんな四人は、十八の頃からともに住み始め、いまはきっかり十九である。しかし、これから彼女らの十九の日々を語るとしても、いったい彼女らがどんなわけで、こんな狭い家で暮らし始めたか分からないだろう。マヤとニコルは真名華大学の学生なので、そこから近い家をシェアハウスとしたのは納得いくかもしれないが、実はトモとチカの二人は、この大学の学生ではない。それどころか、大学生でもないのである。


 だからこの章では、彼女らが一つの家で暮らし始めたいきさつを語る。


 マヤとチカ、ニコルとトモは、それぞれ小学生の頃からの幼なじみである。マヤとチカは中学生まで同じ学校に通っていたが、別々の高校に進学した。劣等生のマヤは偏差値の低い高校へ、優等生のチカは偏差値の高い高校へ進学したが、マヤは総合型選抜で大学へ行き、チカは行かずに自由気ままな暮らしを始めた。


 一方のニコルとトモは小学生まで同じ学校で過ごしたのち、中学からは別々の道を歩み始めた。優秀なニコルは中学受験をして有名中学に入学し、高校も大学も、一般選抜でいいところへ進学した。ところが劣等生のトモは違う。普通の中学へ行き、少々荒れている高校へ行き、なんとなく進路を短大に設定した。トモは大学二年のはじめまで短大に通っていたが、遅刻が多く退学となった。半年間バイトをしながら生活していたが、大学二年生の秋となったいまではそれももう辞めて、ニートになってしまっている。


 さて、マヤとニコルは同じ大学の同じ人文学部で出会い、意気投合し、ともにシェアハウスで暮らすことにした。そこへニコルの古い友人で、いまはニートのトモが転がり込んできてそこでも引きこもり生活を謳歌し始めた。ニコルとトモはとても親しく、そんな二人の間に入り込めずに寂しくなったマヤが、古い友人のチカを連れてきた。チカは大学進学はしなかったものの、とても聡明で思いやりがあり、自由に日本各地を旅して渡り歩いていた。マヤはチカにこう言った。


「チカは、自分の好きな自由な生き方を続けるべきだよ。でもずっと当てもなく放浪するのは、ちょっと心細いものじゃない? 寂しくなったら、このシェアハウスに帰ってきてよ。ここをあんたの家にしていいからさ。」


 本当のところは、心細くて寂しいのはマヤの方だったのだが、これを聞いたチカは嬉しそうに笑い、こう答えた。


「それ、いいね。まあ、ニコルとトモにも聞いてみるよ。旅で寂しくなったとしても、ちょっとあんたの顔見れば、また元気に出ていけるな。じゃ、これからよろしく、頼むぜ。」


 チカが、旅の合間に時たまこの家を訪ねていいかとニコルとトモに問えば、気のいい二人はたちまちうなずいた。まあそんなもので、シェアハウスでの女四人の生活が始まったわけである。基本的にはマヤとニコルとトモの三人暮らしだが、チカが何かの気まぐれと少しばかりの寂しさで、旅の合間にフラッとこの家に入り、四人暮らしとなるのである。帰ってくるたび、チカの肌の色は濃くなっていった。


 ところである日、トモがチカにこう聞いたことがある。


「あんた、この家に来てくれるのは嬉しいけどねえ、たまにゃ親にも顔出さなくていいの?」


 するとチカは、なんともないような顔でこう答えたのだ。


「ああ、それはね、私と両親は絶縁したからだよ。昔から、母は過保護で、父は暴力的で。高校まで勉強して知識をつけたら、すぐ出ていこうって決めてたからね、こうして元の家には帰らず、あんたたちの待ってくれる家に帰ってるんだよ。」


 それを聞いたトモとニコルは驚いた顔をし、トモは口ごもりながら、両親の話をしたことを謝った。しかし、すでに自由の身となったチカは本当に何も気にしておらず、笑顔で手を振りニコルのつくったジャスミンティーを飲んだ。「おいしいねえ」とさも嬉しそうに言うチカを、マヤは少し離れた場所から見つめていた。


 チカの両親がひどいものだということは、それまでマヤのみ知っていた。ところが、それをいまニコルとトモも知ってしまったのだ。マヤは少しヘソを曲げ、ジャスミンティーにも口をつけようとしなかった。


 そんなマヤの過去を見てみよう。マヤは十八年間ロクに勉強することなく、総合型選抜のみで大学受験をした。そんな受験方式をすると決めるまでの道のりも、実にクレイジーかつ中途半端である(「実にクレイジー」なのに!)。


 マヤは草壁家の長女として生まれ、長らく両親の愛を一心に受けて育った。八つから九つまでの間に草壁家は何度も引っ越しをし、すっかり落ち着かない生活になってしまった。両親はマヤに構ってくれなくなり、それまではそこそこ「いい子」だったマヤの歯車は狂い始めた。


 宿題はまともにやらず、夜になっても家に帰らず遊び歩く。家では小説や漫画を読んだり書いたりし、ひたすら自分の世界で生きた。娘の成績を心配した父が半ば無理やり入塾させた塾でも、算数ができないことと度重なる遅刻が原因で何度も怒られ、嫌になったマヤは母に告げて塾を辞めた。自分に何も言わず塾をやめたマヤに激怒した父は、それからというもの、マヤと顔を合わせるたび怒鳴り合いをするようになった。マヤは何度も夜中に父と大喧嘩しては家を出ていき、電車で知らない都会に行ってはフラフラ歩いた。学校でもクラスメイトと言い合いになり、相手を傷付けたということでひどく責められ、不登校となり、母を何度も何度も泣かせた。


 中学生までそんな調子だったマヤだから、マヤには進学する気などないと両親は思っていたのだろう、マヤが高校へ行きたいと言うと、両親はひどく驚いた。お前は勉強も人付き合いもできないのだから学校は無理だ、義務教育の中学までにしておきなさいと、両親は懸命にマヤを諭した。


 しかし、マヤは誰かにこうしなさいと言われて聞くような奴ではなかった。どうしても行くと言い張り、とうとう父は折れ、マヤは通う意味もないような低い偏差値の高校に進学した。


 なんとなく、高校へ行っておかないと人生が終わるのではないかと、そんな漠然とした不安があったのだ。漠然としていたせいであろう、高校生活の最後には、高校はムダだ、早く卒業したいというのが口癖になっていた。


 それだというのに、なんとマヤは、今度は大学に進学したいと言い出したのだ。それも、なんとなく大学へ行っておかないと人生が終わるのではないかという、漠然とした不安に襲われたからである。しかし自分の未来を死ぬ気で掴み取る覚悟もできずその理由も見つからず、マヤは一向に受験勉強を始めなかった。とうとう父は堪忍袋の尾が切れて、マヤを怒鳴りつけた。


「いい加減にしろ! どうせ勉強も研究も真面目にやらないくせに。お前、勉強したいから高校に行くと言って、結局ロクにしなかっただろ。俺が汗水垂らして働いて、やっと手に入れた大事な金を、お前は使うだけ使って、どんどんムダにしていく。お前が一度でも真面目に勉強したことあったか? 塾も勝手に辞めて、行くと言い張った高校でも勉強をさぼったくせに。進学したくてもできない人たちの気持ちを考えてみろ! とりあえずやなんとなくで、大学になんか行かせないからな!」


 これにはさすがのマヤも堪え、良心が傷付いた。そこでマヤは、本当に大学へ行きたいのか、そしてなぜ行きたいのかを、真剣に考えてみることにした。しかしどうしても思いつかず、何か適当なことを父に告げ、結局「とりあえずやなんとなく」で受験を決めてしまった。そして、頭が悪く一般選抜ではとうてい大学に立ち向かえないということで、総合型選抜一本で受験をすることになったのである。


 小学六年生の妹の草壁 乙女(くさかべ おとめ)と、小学五年生の弟の草壁 優太(くさかべ ゆうた)は、毎日ちゃんと学校に行き、立派に勉強をこなしている。二人より実年齢が八も九も上のマヤだが、精神年齢に関しては、八も九も下だと言ってもおかしくないような、大きな大きな赤ん坊なのだ。


 彼女と正反対なしっかり者の、ニコルの過去はどのようなものだろう。


 ニコルはイギリスのロンドンに、不動産会社の社長である父と大学教授である母の間に生を受けた。それすなわち、お金持ちのマックィーン家の娘として誕生したのだ。父が主にイギリスと日本に物件を所有していたため、ニコル含むマックィーン家は日英間を往復する二拠点生活を送っている。そのためニコルと彼女の兄は、英語も日本語も流暢である。ニコルと、兄のノエル=ウィリアム=マックィーンは、イギリスと日本の小学校を行き来してそれぞれに通っていたが、小学校を卒業する際に両親がニコルとノエルに進路を選ばせ、ニコルは日本の有名中学を、ノエルはイギリスの有名中学を受験した。ニコルは合格し、高校も大学も日本の有名学校に進学した。一方のノエルは、有名中学は落ちたものの、滑り止めの中学校に合格し、そこからさらに勉強して有名高校に進学した。その高校は有名大学の附属高校だったため、ノエルはエスカレーター式で大学へと入学した。いまでは、ニコルは日本の大学二年生として、ノエルはイギリスの大学院生として、それぞれの勉学や研究に勤しんでいる。ニコルは各国の言語を、ノエルは工学を研究している。


 中学生の頃から日本で暮らしてきたニコルは、たいてい父と一緒に過ごしてきた。父がイギリスで仕事がある際は、日本にいる親戚のもとに泊まり、そこで楽しく過ごした。


 一方、中学生の頃からイギリスで暮らしてきたノエルは、母と一緒に過ごしてきた。大学も、母が教授をしている学校に進学した。たまにイギリスで仕事をするために戻ってきた父と顔を合わせ、時間があれば一緒に遊んだ。


 ずっと離れ離れの四人だが、年に一度は日本かイギリスのどちらかに集まって、家族みんなで一緒に過ごすことにしている。マックィーン家は、頭が良くてお金があって家族仲が良好で、とにかく理想的な家庭なのだ。


 マヤはそんなニコルに憧れ、心底羨ましいと思っていた。


 またマヤは、「マルさん」のことも羨ましく思っていた。


 マルさんは本名を幸 丸之助(こう まるのすけ)という、トモの叔父だ。トモの母である佐久間 春子(さくま はるこ)、旧名 幸 春子(こう はるこ)の兄である。マルさんはまともに勉強をせず、十七で高校を中退し、十八で家出し、以降はテキ屋をしながらフーテンとして心の赴くままに各地を旅する生活をしている、まさに風のような男だ。ときどきフラッとシェアハウスを訪れては、また気の向くままに旅をしている。その姿は、さながらチカのようである。


 ある日、マヤはマルさんに、こんな相談をしたことがある。


「私、特別な存在になりたいんです。特別な存在になって、いつまでも人々の記憶に残りたいんです」


 すると、マルさんはこう言った。


「大事なのは特別になろうとすることじゃなくってな、自分を特別だと思い込むことなんだ」


 その日から、マヤはマルさんに、強く強く、さらにもっと強く憧れるようになった。


 おまけに、マルさんは社交的で、誰とでもすぐに親しくなれるし、誰とでもすぐに友だちになれる。流れるようにしゃべり、上手い具合に商売や呼び込みを行い、パチパチパチとそろばんをはじき、あっという間に人々の心や金をかっさらってゆく。


 それに比べて、マヤは根っからの人見知りで、すぐに誰かと親しくなったり、友人をつくったりすることができない。苦手な人と話そうと思うと、たちまち脂汗が吹き出て吃りだす。商売もできない、呼び込みなんて、ましてマヤなどにできやしない。また、小学校でも中学校でも算数やら数学やらをさぼってきたため、簡単な足し算や引き算ですら暗算ではできない。そろばんもロクにはじけない。そんな情けない性分なもんだから、自分とまったく違うマルさんが羨ましくて仕方がなかった。


 マルさんだけではない。ニコル、トモ、チカ、マルさん…マヤは自分の身の周りの全ての人が、羨ましくて仕方がない。そして、この四人の生き方のどれかを真似したいと思ったが、どうしてもできなかった。


 ニコルは幼い頃から勉学や研究に楽しく取り組み、いい学校に進学し続け、その間も多くの趣味をこなしてきた。そのうえ笑顔は可愛く愛嬌はあり、スタイルも良く、イギリスにトムという名の彼氏までいる。


 トモは幼い頃から好きなことばかりやり続け、あとはひたすら怠け続けている。それなのに、ちゃんとすればニコルに負けず劣らず、というよりもニコルより美人というのも癪である。


 チカはするべきことをしっかりこなし、両親からの虐待も上手くかわして時には耐えて、強く立派な華のような女になった。自由気ままに旅をして、ときおりフラッと帰ってきては、素敵な笑顔で「ただいま」と言う。


 マルさんは若い頃から無茶なことばかりやり続け、最大の無茶をして家出をし、あとは気まぐれな風のように、北へ南へ生きてきた。自由気ままに旅をして、色んなところで商売しては、楽しく切なく過ごしている。


 マヤがこんなにも他人の人生を羨ましく思うのは、マヤの人生がめちゃくちゃで、かつ中途半端だからだろう。マヤは勉学も研究も、一度も楽しいと思ったことはなく、逃げて怠けて悪い成績をとり続ける。趣味を持っても上手くはゆかず、想う人ができても幸せにはなれない。どんなものでもどんな人でも、あまりに愛しすぎてしまい、幸せはすぐに過ぎてつらくなる。かと思ったら突然飽きて、次の何かに夢中になる。自分を好きになった男は許せず、遠い男ばかりを好きになる。もちろん一度も恋人がいたことはない。少しばかり変わり者なだけで、天才でなく、これっぽっちの才能もない。何かと言えばすぐに泣きたくなるくせに、そんな自分が嫌で嫌で仕方なく、さらに泣いてループに落ちる。夜になれば死にたくなり、朝が来ればひたすら眠く、目は常に充血している。自分が好きで自分が嫌いで、自己中心的でナルシストで性格が悪い。内面だけではなく外見も醜悪で、なんとか作った笑顔はまるで般若のようだ。愛想よく話そうと思えば声は低く響き、まぶたは震えて腹は壊れる。人には嫌なことをするくせに、自分がされると泣いてわめいて怒鳴って沈む。心はガラスのようにもろく、鉛のように硬くて重い。ニコルのように勉学や研究を楽しむことも、トモのように才能を持つことも、チカのように強い心を持って自由になることも、マルさんのようにひたすらブラブラすることもできない。


 ああ、ニコルやチカのように、物語のような美しい人生ならば! はたまたトモやマルさんのように、思いっきりめちゃくちゃな人生ならば!


 そうであれば、年をとったときに面白い話として子供だの孫だのに語って聞かせてやれるかもしれないが、なにしろ中途半端なのだから、堂々と話せることが何もない。マヤは今日もひとり、つまらない自分と過ごすことに失望しながら、一日じゅう心で泣き続ける。



 ある日、マヤたちのシェアハウスは荒れに荒れた。あまりに怠惰な生活を送るトモに対して、マヤはイライラし、ニコルは心配し、働くよう指図したのだ。


「トモ、あんたなんで働かないの!? 部屋から出て、お風呂にぐらい入りなさいよ!(トモはだらしないし、風呂にもまともに入らないし、よく屁をするしで、中身はオッサンだ。)このニートが!」


「待って、マヤ」泡を飛ばす勢いのマヤに、ニコルはそっと言う。「トモのことが心配なのは分かるけど、そこまで強く言うことないでしょ」


「心配!? 私があいつを!?」マヤは憤慨した。「違うわよ、むかついてるだけ! だって私が一生懸命に生きてる間、あいつはずうっと好きなことばっかりやってるニートなんだもん!」


「まあ、なによ、それ!」ニコルも親友を悪く言われて、頭にカッと血が昇った。「確かにトモは働いてないけど、そんな言い方はないでしょ!」


「うるさい!」


 と、


「分かった」


 トモの声に、マヤとニコルがハッとして顔を上げると、部屋からのっそり出てきたトモが、パジャマに裸足で階段を降りてくるところだった。


「働くよ」


 トモの言葉に、マヤとニコルは信じられずに顔を見合わせた。



 それから、トモは本当に仕事を始めた。いままで描いてきた漫画や、新しく描いた漫画を、コンクールに投稿し始めたのだ。すると、なんと何発目かで賞をとってしまい、それは何度も続いた。まぐれではない。佐久間トモカは天才だったのだ。


 トモの漫画はあっという間に書籍化され、大ヒットを呼び、社会現象となった。さらに小説もエッセイも売れ、トモが本格的に作家になった頃には、マヤとニコルは大学三年生になっていた。季節は春だ。大天才で大人気作家のトモには、まさに春が訪れている、ように、マヤには見えた。実際のトモは、名声の裏で誹謗中傷に苦しみ、スランプに悩まされていたのだが。


 トモに寄り添うニコルとは裏腹に、マヤは食卓で何度もトモの悪口を吐いた。その内容は毎度、主にこんなものだった。


「なんであんな漫画だの小説だのが売れるのか分かんない。つまんないのに」


 ガンッ!


 ある日、机を勢いよく蹴り上げた音に、その場に座っていたマヤとチカは肩を震わせてニコルを見た。ニコルは静かな青い瞳にありったけの怒りを込めて、マヤののっぺりした顔を鋭くにらんでいる。ニコルが机を蹴った拍子にこぼれたお茶がマヤのズボンにかかり、床に一定のリズムで滴り落ちていた。


「いい加減にして! トモの悪口を言うな! 誹謗中傷だぞ!」


 ニコルの鋭い声と「誹謗中傷」という単語に、マヤは一瞬、心臓が持ち上がるような気持ちがした。とたん、自分がひどいことをしたということと、トモに対して申し訳ないという気持ちが湧いてきたが、トモの寝ぼけた顔を思い出すとどうにも腹立たしく、また素直に詫びるのはどうも気恥ずかしく、心にもないことを怒鳴ってしまった。


「うるさい! ニコルもトモも大っ嫌い!」


 ニコルは机を拳でドンとたたき、勢いよくドアを開けて外に出て、振り返らずに激しく閉めた。その衝撃で、家の中の食器がガシャンと音を立てた。


 一瞬の静けさのあと、チカがそっと言った。


「マヤ。今のは、あんまりだと思うよ」


 再び、心臓が持ち上がる。マヤの瞳孔と全身の毛穴は大きく開いた。そして次の瞬間、チカは静かに立ち上がり、キイとドアを開けて外に出て、振り返らずに後ろ手でそっと閉めた。マヤの心臓は、ドクンと音を立てた。そのまま鼓動が速くなり、世界がじわりと滲む。(続く)