今回は、小説「クリムルーレの花」の続編「キャンコロトンの森」の第10章です。
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第10章 珍事(前編)
次の日の夜は、たいへん珍しいことが起こった。シャウィーがクリムルーレ家に帰り、タットとアンダリがキャンコロトン家に残ったのである。
理由は実に情けないもので、シャウィーの夏休みの課題に全く手が付けられていないことを知ったラチルドが、彼に怒りの電話をかけてきたからである。
たいていの子供は、母が怒るとどんなに怖い存在かを知っているので、シャウィーはぶつぶつ文句を言いながらも、汽車に乗って家に帰っていった。
そんなわけで、タットとアンダリはふたりきりになった。フィーダがこの様子を見たら金切り声を上げるだろうと考えながら、ふたりはキャンコロトン家の屋根の上に登り、並んで座った。
「フィーダは、どうしてあんなに私のことが嫌いなのかしら。」アンダリは言った。「私、今まで人に嫌われたことなんて一度もなかったの。ただ、自分の幸せを、他の人にも分けようと思って、フィーダにもそれをしていただけなの。
ねえ、私の何がいけなかったと思う? 何がそんなにフィーダの気に障ったのだと思う?」
瞳を潤ませながら熱心に聞くアンダリを見て、タットは彼女に同情した。もし自分が新しい友だちに好意的に接しているのに、全く好かれず、むしろ嫌われたら、どんな気持ちになるだろう。実際、僕がフィーダと出会ったばかりの頃、フィーダは僕に対しても冷たく接していた…。そんなことを考えたので、タットがアンダリの気持ちを理解するのは簡単なことだった。
「フィーダはね、普通の子じゃないんだよ。」タットは、アンダリと同じように熱心に、そして優しく言った。「そこが魅力なんだけど、とにかく全てにとげがあって、強烈なんだ。そのとげを、すぐに他人に向けちゃうんだよ。
君は悪くない。フィーダのとげが、君に向いてしまっただけさ。」
アンダリはうつむいた。
「そのとげを向けられるようなことを、私がしてしまったのよ。」
「いや、違うよ。それは絶対に違う。
あのね、アンダリ。これは仕方ないことなんだ。君がシェイの娘じゃなければ、そのう、なんというか…フィーダは、あんなには気を悪くしなかったと思うんだ。
でも、それが悪いと言うんじゃない。君がシェイの娘なのは、君が産まれてきたときから決まってることなんだから。」
アンダリはタットを見た。
「シェイはフィーダにとって、あまりに特別な存在なんだ。君は悪くないけど、どうかそのことは分かってあげてほしい。君も傷付いてるかもしれないけど、フィーダも傷付いてるんだ。」
「そうね…そうなのね。分かったわ。」アンダリはいつものように、温かく微笑んだ。「今まで通り、フィーダに会ったら好意的に接することにするわ。でも、なるべくあまり話さないようにする。それが私にとってもフィーダにとっても、一番いいことだと思うもの。」
「そうだね、僕もそれがいいと思うよ。」
タットも、優しく微笑んでうなずいた。
「大丈夫、いつかとげはしまわれるさ。なくなることはないけど、しまわれていることが多いという日が、いつかきっとやってくるさ。僕もそうだったから。」
「分かったわ。とげはあまり気にしないことにするわ。
お裁縫をするとき、今までなんべんも指に針を刺して怪我したけれど、全部すっかり治ったわ。フィーダのとげが刺さったとしても、きっとすぐに治るはずよね。
それにあなたの言う通り、フィーダのとげがしまわれる日はいつか必ず来るわ。あなたがいるんですもの。」
「僕が?」タットは、きょとんとして聞き返した。
「そうよ。」アンダリはうなずいた。「あなたはフィーダの精神安定剤ですもの。あなたの優しい言葉とキスがあれば、フィーダも優しい気持ちになれるわよ。」
タットは、はにかんだ。ふたりは、穏やかな笑い声を立てた。
それからしばらくして、今度はタットからアンダリに話しかけた。
「シャウィーが話してくれたんだけど、君の欲しいものは、温かい家庭なんだってね。」
「ええ、そうなの。」
「僕、アンダリはしっかりしてるから、ひとり暮らしでも寂しくないんだと思ってた。でも、君もやっぱり寂しいんだね。」
「寂しい…そうね。」アンダリは、空に散らばっている宝石のような星々を眺めながら言った。「お母さんとお父さんの愛情が、まだこの胸にあるから、あまり寂しくないのよ。でも、いくら愛情があっても、ぬくもりを持ったからだがないと、少し切なくなることがあるわ。
私、今の暮らしでも充分満足してるわ。でも、温かくて、血が通っていて、触れることのできる家族が欲しいのよ。もしも、わがままを言っていいならね。」
「わがままなんかじゃないよ。家族のぬくもりを求めるのは当然のことだよ。」
「そうかしら。」
「そうだよ。」
タットは熱心にうなずいた。アンダリは切なそうに微笑んだ。
「でも、寂しがることないよ、アンダリ。シャウィーは君に惚れてる。きっとシャウィーが君の家族になるさ。」
その言葉に、アンダリの微笑みは、いつものように温かいものに戻った。
「シャウィーが、ほんとうに私のことを好きなら、嬉しいわ。」
と言ったアンダリの頬は、赤くなっていた。
「ほんとうだよ。シャウィーは今まで女の子に興味なんかなかったんだ。あんなに強く惹かれている女の子は、君だけだよ。」
その言葉のあと、タットとアンダリは黙っていた。優しく、穏やかで、温かな沈黙だった。
しばらくして、またアンダリが口を開いた。
「あなたの家庭も、とても温かそうね、タット。弟がいて、お母さんがいて、お父さんがいて。お母さんとお父さんはとても良くしてくれるし、素敵な人たちだわ。あのふたりから産まれてきたあなただから、きっとこんなに優しいのでしょうね。」
「まあね。僕はあのふたりの子供じゃないけど。」
タットは笑いながら何気なく言ったが、アンダリの動きは止まった。意味を理解するのに、時間がかかっているようだ。
「どういうこと?」
「あ、ああ、言ってなかったっけ。」タットは頭をかいた。「いや、まあ、あのふたりの子供ではあるんだけどさ。ケットさんは義理の父親なんだ。僕とシャウィーが母親の子供で、フィーダが父親の子供なんだよ。
うちは、数年前にパパが肺炎で死んじゃってね。フィーダの両親は離婚したんだ。だから、ふたりは再婚して、僕らは家族になったんだよ。」
「そうだったのね。」アンダリは、心底驚いていた。「私、てっきり、あなたとシャウィーが両親の実の子供で、フィーダはあなたの許嫁なんだと思ってたわ。」
「い、許嫁? まさか!」と言ったタットの顔は、耳まで赤かった。「そんなんじゃないよ。ただの恋人で、妹なんだ。」
「そうだったのね。」アンダリはびっくりして、それしか言えないようだった。「ああ、そうだったのね。」
それから少しして、アンダリは遠慮がちにこう尋ねた。
「お父さんが死んだとき、悲しかった?」
「そりゃあもう。」タットはうなずいた。「だから、アンダリの気持ち、少し分かる気がするんだ。アンダリもママが死んだとき、悲しかっただろう?」
アンダリはうなずいた。タットは空を見上げて、切なく微笑んだ。
「パパが死んだって聞いたとき、すぐには信じられなかった。前から具合が悪いのは分かってたし、入院もしてたんだ。でも信じられなかった。
忘れもしない、あれは十月二十九日の朝だった。パパが死にそうだって分かったとき、僕とシャウィーはパパに会わせてもらえなかった。ママがパパの病室に駆け込んでいって、僕らは待合室で待たされたんだ。シャウィーはソファのはじに、うずくまって泣いてた。僕はシャウィーを抱きしめたけど、シャウィーは全然泣きやまなくて、僕も泣いちゃったんだ。近くにいたおじさんが慰めてくれて、隣に座っていた女の人は、同情して一緒に泣いていた。
それから、ママが病室から出てきたんだ。「パパが死んだ」って、ママは一言、言った。それだけだったんだ。それから、三人で泣いた。
葬儀には参加したけど、そのときには、なぜか涙が出なかった。ママもシャウィーも泣いてたし、親戚の人も泣いてたのに。パパが死んだのが信じられなかった。おかしいよね、病院ではわんわん泣けたのにさ。」
タットがそこまで言って言葉を切ると、アンダリはたった一言、「そうなのね。」と言った。心から同情しており、温かく、しかし遠慮がちな言い方だった。
「…そうね、私もママが死んだとき、すぐには信じられなかったかも。それに、あなたと同じなの。私も泣けなかった。だから、あなたはおかしいなんてことないわ。」
タットは、「ありがとう。」と微笑んだ。アンダリは胸が苦しくなった。
「…なんかさ、パパの周忌とかより、何気ない瞬間の方が涙が出るんだ。たとえばコップを手に取ったときとかに、小さい頃、コップを落として割っちゃって、パパが怒らずに、「大丈夫だぞお。」って言って片付けてくれたことを思い出すんだ。そんなとき、胸が苦しくなって、急いでトイレかどこかに駆け込む。そうすると涙が止まらなくなっちゃってさ、ときどきこまるんだ。」
「あ、それ、分かるかも。」
「アンダリも?」
アンダリは、うん、とうなずいた。アンダリは少しためらいながらも、タットになら話してもいいような気がして、話し始めた。
「私も…そうなの。夕方になって日が沈むのを見たときなんかは、ひどく感傷的になってしまうの。ママと幾度も眺めた美しい夕景色を思い出すのよ。そのくらいの時間帯に、よくママと散歩してたの。ママは私を抱きしめて、「いつもありがとう。」って言うのよ。それがとても好きだったから、忘れられないの。」
タットは、うなずいた。
「そっか、そうなんだ。素敵なママだね。」
タットが微笑むと、アンダリも微笑んだ。
「うん。タットのお父さんも、とっても素敵なお父さんね。」
ふたりは穏やかに微笑んでいたが、ふたりとも、互いが心で泣いていることを知っていた。何も言わずともそれが分かった。だから、ふたりは互いに互いの欠けた心を、無言で微笑みながらいたわった。
そうして、星がきらめく夜は過ぎていったのだ。
〜第11章へ続く〜