こんにちは、あすなろまどかです。
今回は、小説「クリムルーレの花」第6章です。
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タットは、何の用だろうと思いながら、フィーダが話しだすのを待っていた。シェイが亡くなった話をしたこと、まだ怒っているのかな。
今日は、何の音楽も流れていなかった。シェイのポスターが貼られていたあたりの壁に取り付けられている棚には、大量のレコードやCDが並んでいた。
ビートルズ、ローリング・ストーンズ、エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、クイーン、オアシス、レッド・ツェッペリン、ザ・フー、ニルヴァーナ、フランス・ギャル、マイケル・ジャクソン、ジャスティン・ビーバー、エド・シーラン…。
タットはロックがあまり好きでなかったが、『Hound Dog』を大音量で流してほしいと思うほど、部屋の中は静かだった。
決まりの悪い沈黙が流れる中、タットは窓を打つ雨の音を聞いていた。激しく窓を叩きつける雨粒の音は、いくらかタットの気を落ち着けたが、同時にシェイのポスターを思い出させた。
それから半時間もして、やっとフィーダが口を開いた。
「タット。私のこと、好き?」
その問いかけに、タットはどきりとした。一瞬うそをつこうかと思ったが、何とかうなずいて、真実の愛を告白した。
「好きだよ。」
フィーダは、そう、と答えてため息をついた。そっけない態度に、タットは頭がぐらりとした。
「ごめんなさい。好かれて嬉しくないわけじゃないの。だって、私の方でも、とっても、とっても…あんたが好きなんだもの。」
そう告げたフィーダの頬は赤かった。タットは、また、頭がぐらりとした。
「でも、私なんかを好きなあんたのことが、可哀想だわ。私はほんとうに、おろかな女なんだもの。」
「おろか? 君のどこが?」
タットは驚いて尋ねた。タットはほんとうにフィーダを愛していたし、彼女は純で素敵な女の子だと心から思っていた。
「私、花にはなれそうもないわ、タット。私の性格って、ほんとうにねじ曲がっているのよ。」
「ねじ曲がってたって、なんだって、関係ないよ。僕は君が好きなんだ。それに、たとえどんなに性格がねじ曲がっているとしても、ほんとうの心の奥はきっと綺麗だよ。」
「でも、あんたに嫌われるのが怖いわ、タット。私、いまから自分のねじ曲がった性格のことをすっかり話すから、あんた、聞いててよ。そして聞き終わってから、そんなひねくれた私をほんとうに好きになれるかどうか、告白して。」
フィーダの澄んだ声に、タットは「分かった。」と頼もしく答えた。
「私は…私はね。」フィーダはそこで深く息を吸い込み、それから決心したかのように、早口でこう言いきった。「自分の幸福のために、他人の死を喜ぶような人間なのよ。」
一瞬、タットとフィーダの間に静寂が走った。タットはわけが分からず、ただフィーダを見つめた。
「どういうこと?」
「私の一番の幸福は狂人でいることだって私が言ったこと、あんた、覚えてる?」
フィーダの問いに、タットはうなずいた。
「そういうことよ。会ったこともないシェイの死を悲しめるなんて、狂ってるでしょ。大好きなシェイがこの世にいないことは悲しいけど、そのおかげで、私の一番の幸福は守られているのよ。」
タットはフィーダを見つめた。いま、フィーダは、タットから一番遠い場所にいるようだった。
「で、でも、なんでそれだけで、君がおろかだなんてことになるの? 確かにすごく複雑で難しくて、正直なところ僕には理解できないけど、君の性格がねじ曲がってることは分かるよ。でも、ねじ曲がってるからって、どうして君がおろかだということになるの?」
「今、言ったでしょ。」タットの質問に、フィーダは彼をにらみつけた。「他人の死を喜んでいるからよ。それ以上におろかなことがある?」
「たくさんあると思うよ…とっさには、思い浮かばないけど。
でもさ、おろかだとしても、やっぱり僕は君が好きだよ。どうしてだか分かんないけど、どうしようもなく好きだなあ。君ってすごく魅力的だよ。」
タットはフィーダを精いっぱい褒めたが、フィーダからの返事は「あんたは私をいいようにしか捉えられないのよ。」というそっけないものだったので、少しむっとした。
「君をいいように捉えたら悪いっていうの? そういうところだよ、君のねじ曲がってて、複雑で、面倒くさいところは。なんでも後ろ向きに考えるんだから。」
フィーダは悲しみのこもった海色の瞳で、タットを見つめた。
「ええ…そうね、そうよね。ごめんなさい。よく分かってる。でも私は、どうしても、こんなどうしようもない性格だわ。あんたに迷惑をかけてるのは分かってるわよ。あんたに悪いとも思ってる。でも、物事を前向きに考えるなんて、あんたみたいなこと、できないわよ。あんたは難しいことばっかり言うんだから。」
「ごめんよ、フィーダ。でも僕からすると、君の方が難しいことばかり言ってるよ。」タットは、優しく言った。「ねえ、フィーダ。君にとっては難しいことかもしれないけど、一度何も考えずに、誰かを愛してみたらどうかな。たとえば僕とか、あるいはシェイとかさ。
シェイの死を喜んでたって、なんだって、いいじゃないか。シェイのことが大好きなのは変わらないんだから。なら、もう一歩進んで、シェイを愛そうよ。」
フィーダは、泣いていた。かたくなで、簡単に解くことのできない心の呪いが、タットによって解かれつつあるのだ。フィーダは、あともう一歩のところで、楽になれる気がした。しかし、楽になると同時に、何かが失われてしまうかもしれないと考えると、恐ろしくて仕方がなかった。
フィーダは、壁のシェイを見つめた。シェイの笑顔の半分が、フィーダをじっと見つめている。シェイのことが大好きでたまらないはずなのに、不意に、その裂かれた笑顔が恐ろしいものに感じられた。フィーダは、今にもシェイに呪い殺されるのではないかという妄想に呑み込まれてしまい、考えることも、まともに息をすることもできなくなった。目の焦点は合わなくなり、だらだらと冷や汗が流れる中で、壁に吸い込まれてしまう気がした。自分は世界中の病気にかかってしまったのではないかと焦るフィーダを、心配そうに、しかし穏やかに見つめるタットがいた。
少しして、突然「お願い…お願い…」とフィーダがつぶやき始めたので、タットは「え?」と声を漏らした。
「どうしたの? フィーダ。大丈夫かい。」
タットがフィーダの背中をさすろうと手を伸ばすと、それまでずっとベッドに座っていたフィーダが、突然立ち上がった。次の瞬間、フィーダの汗はおさまり、目の焦点はすうっと合った。その何もかもが、あまりにも突然起こったことだったので、可哀想なタットはすっかり困惑してしまい、フィーダの背中にかけようとした左手の行き場を失い、宙でとどめておくことしかできなかった。フィーダは、まだ「お願い…お願い…」とつぶやいている。その声が、どんどん大きくなってきている。タットは当惑の中心へと、ずるずると引きずり込まれていった。そして、その次の瞬間。
「お願い! 私を狂人に戻して!」
フィーダは突然、タットにかじりつく勢いで怒鳴った。
「戻りたい、戻りたい! 何もかもが狂っていた三年前に戻りたいわ!」
タットは驚いて、しばらく口もきけなかった。やがて十分ほど経ち、ようやく少し落ち着くと、タットはフィーダに尋ねた。
「く、狂っていたって、どういうこと?」
「三年前、私は、私は、うつ病だったのよ。」フィーダは、ぼろぼろと泣きながら、声を詰まらせながら、何とか答えた。「毎日毎日、自分の部屋に閉じこもって、ベッドに座ってぼうっとしていたの。太陽や月が何度も昇ったり沈んだりしたけど、その間、何もしなかった。ただ永久にぼうっとしていたの。ご飯を食べたり、お風呂に入ったり、そういう日常生活でやっていかなくちゃならないことも、何もしたくなかった。何もしなかった。時々、宇宙の破滅や、地球が崩れてマントルがボロボロになるところを考えるだけで。この世の何もかもがくだらなかったの。」
「そんな苦しいときに戻りたいって、フィーダ、いったいぜんたい、どういうことだい?」
「分からない!? 狂っていた私は、すごくすごく尖ってて、色んな人から恐れられてたのよ! 特別な存在だったの! それに、私は自分が狂っていて、尖っていたことにも気付かなかった! 気付かないほど狂っていたの! 素晴らしいでしょう!」
フィーダは、ケタケタと笑った。彼女の綺麗な海色の瞳に映り込む暗い影を、タットはそのとき、初めて恐れた。
「それなのに」フィーダの端正な顔から、突然、笑顔がすうっと消えた。「ああ、それなのに! 今ではこんなに普通の女の子になってしまったのよ! 三年前と同様、色んな人が、私のことを狂人だと言う。私は三年前から何も変わっていない、何も成長していない、ただの発達障害者だと!
でもね、違うのよ、タット。分かるでしょう? 私は変わったの。三年前と違って、私は自分が狂人だと知ってしまったのよ!
私は悪くないわ! 色んな人が私を狂人だと言うんだもの! だから、自分が狂ってるって分かるのも無理はないでしょう! 全部、みんなのせいなのよ!
本物の狂人は、自分が狂っていると気付かないほど、狂っている人間だわ。そして三年前の私が、まさにそうだったのよ。会ったこともない男が死んだ三十年前を嘆き、涙も出ないほど悲しんでいたの。
でも今は、自分が狂っていると気付いてしまった上に、今のようなつらいことに直面すると、涙が出るの! 人はあんまり悲しいとき、涙が出ないのよ。涙が出るということは、それほど悲しくないの。自分が狂っていないと気付いて涙が出るということは、私は自分が狂っていないことに対して、それほど大きな悲しみを感じてないのよ。つまり、私はもう狂人ではないということよ! 私は結局、量産型の人間。他のまともな人間と同じ。もう、異常な私はこの世のどこにもいないのよ! そのことが悲しくて仕方ないの!」
タットはあっけにとられて、フィーダを見つめた。フィーダは息を荒らげ、熱い涙を流し、悲しそうな顔でタットを見つめ返した。とんでもない女を愛してしまったのだと、タットは改めて痛感した。それでも、タットのフィーダへの愛はやまず、むしろ、彼女の狂った表情と、目の下にできた涙の筋に、かつてないほどの魅力を感じた。
「君は狂人だよ、フィーダ。」
静かに告げたタットに、フィーダは怒鳴った。
「嘘だ!」
「嘘じゃない。」
タットは、まごころ込めた墨色の瞳で、フィーダを見つめた。
「嘘じゃないよ。」
フィーダは、少し驚いたような顔をした。
「聞いておくれ、僕の愛するフィーダ。君は何ひとつ変わっていない。三年前の君を見たことはないけど、そう断言できる。君は生まれたときから狂っていて、生きてきたこれまでの人生の中でも、ずっと狂っている。君はこれからも永久に狂っているし、死ぬ寸前だって立派な狂人だよ。間違いない。」
タットの切実な言葉に、フィーダは一歩前に出た。愛するフィーダとの距離が縮まり、タットの胸は高鳴った。
「ねえ、フィーダ。君の狂っているところを、無理やり治そうとしてごめんね。狂人であることが、君のほんとうの幸福なんだよね。なら、二度とその邪魔はしない。ほんとうにごめんね。」
フィーダはあっけにとられて、タットを見つめた。タットはやわらかな微笑みを浮かべ、愛に満たされたまなざしを、フィーダに向けていた。その瞬間、フィーダは自分がどれほど彼に愛されているのか、そして、愛される喜びがどれほど尊いものなのかを知った。
「タット。」
名前を呼びかけたフィーダの声は、震えていた。彼女の美しい顔にはバラ色の輝きが戻り、澄んだ海色の瞳には、幸福のともしびがよみがえった。彼女は微笑んだ。タットはその微笑みを、宇宙に浮かぶどんな星のきらめきよりも美しいと思った。
「タット、こんな私を愛するって、とっても馬鹿ね。」
「僕も狂ってるんだ。もちろん、君ほどじゃないけどね。」
タットの言葉に、二人は楽しげに笑い合った。世界中のどこを探しても、このときのタットとフィーダの愛ほど、大きくて温かい愛はないだろう。
フィーダはタットに歩み寄り、そして彼の唇に、彼女が初めて見せるベイビー・ピンクのまごころを、そっと落とした。
狂った少年と狂った少女は、愛を込めて、互いを見つめ合った。この日のために、これまで数々の苦しみに彩られてきた長い年月があったのだと、少年少女は、このとき初めて分かった。