こんにちは、あすなろまどかです。
今回は、小説「真夏の陰鬱」第3章 & 第4章です。
第3章 五十嵐アイ
「最近、どう? 学校は」
「まあまあ、ってところです。息苦しいのに変わりはないけど、前みたいに過呼吸になったりはしないし」
「そうか。まあ、無理しないことだよ。せっかく良くなってきてるからね」
「はい」
「じゃあ、今日はこれで終わりでいいよ」
「はい。ありがとうございました」
若槻院長に礼を述べ、五十嵐アイは外に出た。オレンジ色の空から伸びた太陽の光が、アイの黒い影の周りを縁取っていた。ヒグラシの鳴く中を、アイは駅へと歩いた。
ガタンゴトン、ガタンゴトン…。
徐々にスピードを上げてゆく電車のドア付近に立ち、アイは外を眺めた。何もかもが、夕焼けに包まれていた。
(若槻院長は、どうして私なんかを相手にしてくれるんだろう)
これまで何千回と思ってきたことを、アイは今日もまた考える。
電車がトンネルに入り、ドアのガラスには自身の顔が映り込んだ。自信のない、無愛想な、自分の顔。
(本当に、私を大切に思ってくれてるのかな。それとも)
トンネルを抜けた。大嫌いな自分の顔は消え、代わりに先ほどまでの美しい夕景色が目の前に広がる。川の水面に夕日が映り、まるで太陽が二つあるように見えた。
「ただいまー」
ドアを開けると、家の中は案の定、真っ暗だった。アイは軽くため息をついて玄関の灯りをつけると、ドアを閉めた。抜いだ靴をきっちりと揃え、誰もいないダイニングへと向かう。
ダイニングの灯りをつけると、食卓にはいつもの光景が広がっていた。きちんとラップをかけた皿の横に、ピンクと白の可愛らしいメモ帳が置かれている。
「いいって言ってるのに」
アイは、学生鞄を静かに椅子の上に置いた。メモを手に取る。そこには書き初めの手本のような字で、「また遅くなります。いつもゴメンネ…。今日はアイちゃんの好きなハンバーグだよ!」と書かれていた。
メモを机上に戻す。
「こんなにいい人も地球にいるのに、どうしてあんな奴もいるの」
握りしめた拳が震える。
「許さない。へこへこして、外面だけはいい人そうにして」
椅子の上の学生鞄を掴み、床に投げつける。どさっと音を立てて、数冊の教科書がそこからこぼれた。
「メンタルクリニック?」
「ええ。数ヶ月、そこに通ってみたらどうかな、って」
「でも俺、何ともないよ」
「だけどこの頃、毎日嫌な夢を見ると言ってるじゃないか。それで授業にも集中できないって」
「そうだけど」ケンは何か言いかけて、口をつぐんだ。「…やっぱり、それだけでも異常なことなのかな」
「異常とまでは言わないけど。勉強や学校生活に支障が出てるなら、やっぱり良くないんじゃない?」
「でも、お金は?俺のために使っちゃうなんて…」
ケンはうつむいた。両親は、顔を見合わせた。
「なあ、ケン。お前はまだ子供だろ。お金がどうとか、そんなことはまだ考えなくていいんだよ」
「そうよ。それよりお母さんは、ケンが夢のせいで苦しい思いをしてる方がつらいわ。
クリニックの先生が嫌だったら、すぐやめていいから。一度診てもらいなさい。ね?」
ケンは口を開いたが、何も言わずにうつむいた。瞳を閉じて再び開くと、こくんとうなずいた。
「分かった。行ってみる」
翌日。
学校帰りの五十嵐アイがいつものように、わかつきメンタルクリニックを訪れると、待ち合い室に高校生の青年が座っていた。クリニックは普段ほど混雑しておらず、青年はゆったりとソファに腰掛けていた。アイがソファに近付くと、青年はちょっと足を引っ込めた。アイは、同じソファの、青年から離れたところに座った。
アイは青年を横目で見た。知らない制服を着込み、知らない学生鞄を持っている。しかし、どこか一点を見つめてぼーっとしているその横顔に、ほんの少しの見覚えがある。アイが顔をもう少し青年に向けたちょうどそのとき、スピーカーからアナウンスが流れた。
「五十嵐アイさんと、鈴本ケンさん。五十嵐アイさんと、鈴本ケンさん。三番の診察室にお入りください」
アイと青年は同時に立ち上がった。小さく「どうも」と言うと、青年は無愛想に「どうも」と返した。なぜ、この鈴本ケンという青年と、同じ部屋に入らなければならないのだろう。不思議な気持ちを隠せないまま、アイはケン青年とともに三番の診察室へ入った。
「やあ、アイちゃん。そして、鈴本ケンくん」
診察室の中の看護師が挨拶した。若槻だった。ケンは「こんにちは」、アイは「よろしくお願いします」と返した。
「ごめんね、二人一緒に入ってもらったりして。人手が足りなくてさ」
「別にいいです」
「大丈夫です」
ケンとアイが答える。どちらもよそよそしい言い方だが、ケンの方がさらに感じが悪かった。
「アイちゃんの症状は、ずっと以前から知っている…んだけど、ケンくんは初めてだね。どんな症状があってここに来たのか、教えてくれるかな」
「最近、嫌な夢を見るんです。お母さんが死んだことをお父さんが僕に教える夢と、幼馴染が目の前で死ぬ夢です」
「そうか…他には?」
「ありません。あるとしたら、授業中もその夢のことばかり考えてしまって、集中できないことです」返事の直後、ケンはうつむいて情けなさそうに笑った。「やっぱり、馬鹿馬鹿しいですよね。怖い夢を見ただけで、メンタルクリニックに行くなんて」
「いや、馬鹿馬鹿しくなんてないよ。君は人が亡くなる夢ばかり見ているんだね」話しながら、若槻はカルテを完成させていく。鉛筆のカリカリという早い音が、狭い部屋に鳴り響いた。「それで、目の前のことに集中できない…それって、馬鹿馬鹿しいとか、ただの怖い夢とか、そんなので片付けられない問題だから」
アイはその光景を見ながら、何かを考えていた。人が、亡くなる夢…。
「君のご両親は、今もご健在かな」
「はい」
「そうか…じゃあ、幼馴染は? その子も亡くなってはいないけど、亡くなる夢を見てしまうとか」
「いや、幼馴染は本当に死にました。一緒に俺の家の庭にいたとき、何者かに殺されたんです。血があちこちに飛んでて、体も酷いことになってて…息してなくてっ…それで、それでそれで…」
ケンは、頭を両手で抱え込み、前のめりになって呟き始めた。
「絶対に許さない…絶対に許さない…シオリを殺した誰か…そいつを絶対に許せない!」
ケンは、ハアハアと肩で息をしている。その肩を見つめるアイの瞳は、鋭かった。
「そうだったんだね、ケンくん」若槻が、ケンの熱い背中をさする。「つらかったね。今まで、よく頑張ったね。君は今まで、よく頑張ったよ」
アイは無表情だ。ケンの肩を見つめ、そこだけに意識を集中させている。
(間違いないわ。この青年、やっぱり…)
「ありがとうございました」
「お大事にー」
ケンとアイは二人揃って、診察室を出た。
がら空きのソファにケンが腰を下ろすと、同じソファの少し離れた所に、アイも座った。
沈黙が数十秒続いたのち、ケンが口を開いた。
「おかしい」
「何が」アイは反射的に聞き返した。
「このクリニック、今は俺とあんたしかいないのに、院長はなんで俺たちを同じ部屋で診察したんだろう」
アイは少し黙ったあと、学生鞄から英単語帳を取り出しながら答えた。
「人手が足りない、って言ったのは、院長の冗談みたいなものだわ」
ケンはアイを見た。アイは英単語帳に目を落とし、ケンを見ずに話し続けた。
「本当のところ、あの言葉は院長の愛だったのよ」
「は?」
ケンが思わず身を乗り出して眉をひそめると、アイは英単語帳を開いたまま、ゆっくりとケンに目を向けた。
「院長はね」
と、ちょうどそのとき、
「鈴本ケンさん、鈴本ケンさん」
スピーカーから、ケンを呼ぶ声が聞こえた。
「ああ、もう。行かなきゃ」
ケンは一瞬アイに目を向けると、カウンターへと小走りで向かった。
ケンがナースとともに、次にクリニックに来る日程や時刻を決めている間、アイはじっと彼の背を見ていた。
やがてケンが戻ってくると、すぐに「五十嵐アイさん、五十嵐アイさん」というアナウンスが響いた。アイがすくっと立ち上がると、ケンはアイの前で立ち止まった。しばし、二人は無言で見つめ合う。
数秒間その状態を保ったのち、ケンの方がそれを崩した。大げさにため息をついたかと思うと、出口へ向かって一歩足を踏み出す。
「いつか」
アイの言葉が、ケンの足を止めた。ケンは振り返る。アイも首を回して、ケンを見ていた。
「いつか、あなたと話したい。大事なことを言わなくちゃならないの」
ケンは、内心驚いてアイを見つめた。が、彼女の表情からは何も読めなかった。
ケンは体を完全にアイに向けると、うなずいた。
「分かった」
「よろしくね」
その言葉を言い終えるか、終えないかのうちに、アイはケンに背を向け、カウンターへと歩を進めていった。
第4章 「言わなきゃいけない、大事なこと」
翌日。
キーンコーン、カーンコーン。
「おーい、着席しろー」
いつものように、担任がクラス名簿を教壇に叩きつけながら、生徒に着席を促す。怒鳴られるまで座らなかった不良グループが落ち着いた頃、担任は口を開いた。
「今日は出欠確認の前に、転入生を紹介する」
途端に、教室がざわつく。うつむいていたケンは顔を上げた。
「はいはいはい、静かに。しーずーかーにー」
再び名簿で教壇を叩きながら、担任が生徒を制す。今度は、先ほどより若干早く静まった。
「入っていいぞー」
担任が、廊下に声をかける。
入ってきたのは、目鼻立ちの整った美青年だった。男子は「何だよー、女子じゃねえのかよー」と嘆き、女子は美青年の登場に黄色い声を上げた。ケンは再びうつむいて、全てをシャットアウトするように目を閉じた。クルミは美青年に釘付けになっていた。が、美青年を目にしてめろめろになっている様子ではない。クルミは青年を睨んでいた。青年はクルミを以前から知っているように、自然な感じで彼女を一瞬見つめて微笑んだ。その微笑みに、やはりクルミは見覚えがある気がした。
「それじゃ、自己紹介を」
担任に促された青年は、はい、と愛想良くうなずいた。
「水沢コウジです。青森県の永徳高校から来ました。よろしくお願いします」
はきはきと言い、頭を下げた。「え、やばい」だの、「水沢くん、めっちゃかっこいいー」だのといった女子の囁きが教室中に広がる中、クルミだけがやはり彼を睨んでいた。
(あいつ、どこかで…)
クルミが青年のことを考えていると、担任がクルミの隣の席を名簿で差した。
「あの茶髪の女子、関口クルミっていうんだがな、あいつの隣が空いてるから、あそこに座りなさい」
水沢コウジは再びはい、とうなずき、クルミの隣の席までつかつかと歩いてきた。クルミとコウジの周りの女子たちが、きゃあっと声を上げる。
「よろしく、関口さん」
席に着いたコウジが、小声でクルミに呼びかけた。クルミは、よろしく、と言いかけ、彼の顔を間近で見て息を呑んだ。
「あんた、」
彼が誰かをようやく思い出したクルミが言いかけると、コウジは自分の口元にそっと人差し指を近付け、「しー」と囁いた。
二週間後。
夏がその暑さを増し、セミがジリジリと鳴く中を、ケンは走っていた。
学校が終わり、メンタルクリニックへ行くため、駅まで急いでいるところなのだ。
発車直前の電車にギリギリで乗り込み、席に着くと、学生鞄から下敷きを出して風を送る。早い時刻に学校を早退して電車に乗ったからか、人はまばらだった。ケンの他に、抱っこ紐で赤ん坊を抱いた三十代ほどの母親と、そこから離れた所で唾液の糸を引いて寝ているニートらしき男性以外、その車両にはいなかった。
ケンは、先ほど自動販売機で買った麦茶を胃に流し込み、乾いた喉を潤すと、息をついて目を閉じた。少ししてから目を開け、手の中のペットボトルをまじまじと見つめる。
ケンの脳裏に、あの恐ろしい光景が走る。三年前、死んだシオリ。庭のあちこちに飛び散っていた、シオリの真っ赤な血。何度でも夢に現れる、あの地獄絵図…。
ケンはぎゅうっと目を閉じて、赤い血を頭から振り払おうとした。がしかし、そんな行為は全く意味を成さず、それどころか、ケンの頭の中で、シオリの血は次第に広がってゆく。ケンの全身の毛穴が開いて、脂汗が流れ出る。強く手を握りしめたせいで、青い下敷きがくしゃりと歪んだ。
メンタルクリニックのドアを開けると、エアコンの涼しい風が全身を包み込んだ。ケンは、汗が染み込んだ制服のワイシャツを背中に感じながら、なるべく気にしないようにソファに座った。人は、二、三人、ぱらぱらといるだけだった。
そしてケンは、アイのことを考え始めた。ケンは週に一度、このクリニックへ来ることになっている。先々週アイに「あなたと話したい」と言われたが、先週は彼女の日程と合わなかったらしく、会うことはなかった。今日は会えるだろうか、と考えながら、ケンは姿勢を崩してソファに沈み込んだ。
と、ドアが開き、むっとするような暑さと、セミのやかましい鳴き声が一瞬飛んできた。が、それも少しのことで、すぐにドアが閉まる音が響き、涼しい風と静けさが戻ってきた。
ケンが座ったまま振り向くと、アイがこちらへ歩いてくるところだった。アイの白い頬は上気して桃色になっており、暑い中を歩いてきたからか、少し息が上がっていた。顎から汗がひとしずく、ぽたんと床に落ちて染みた。アイは黒いショートボブの髪をかきあげ、丸っこい耳に引っ掛けた。綺麗だ、とケンは思った。そして同時に、彼女からこぼれる控えめな色気に、少しどきまぎしてもいた。
「よ」
ケンと同じソファに腰掛けたアイに、ケンは適当に挨拶した。相変わらず、アイはケンから少し離れた所に座っていた。
「こんにちは」
アイは丁寧に挨拶して、軽く頭を下げた。ケンは無視して、取り出したスマホをいじり始めた。
「今日、診察が終わったら、話せる?」
アイは、ケンの方を見て尋ねた。
「ああ…言わなきゃいけない、大事なこと?」
「ええ」
ケンは、アイを見た。
「いいよ」
ケンは、そっぽを向きつつ答えた。その返事が、何だか優しい響きになってしまったと感じたので、ケンはぶっきらぼうに「俺はいつも色々やってて忙しいけど、今日は時間とってやるから」と付け加えた。
「ありがとう」
アイは礼を言った。優しい響きだった。ケンが少し驚いて、アイを横目で見た途端に、スピーカーからアナウンスが流れた。
「五十嵐アイさんと、鈴本ケンさん。五十嵐アイさんと、鈴本ケンさん」
ケンとアイは、ほとんど同時に立ち上がった。
「今日も同じ診察室か。ほんとに不思議だよ」
「後で、わけを話してあげるから」
そんな会話を交わしながら、ケンとアイは、同じ診察室に入った。
「失礼します」
「や。待ってたよ、ケンくん、アイちゃん」
若槻院長は、二人ににこりと微笑んだ。
「それで、」ケンは、アイよりも若干早く歩きながら、アイに尋ねた。「大事なこと、って何だ?」
「ええ、実は」
二人は診察を終えて、一緒に駅まで歩いているところなのだった。ケンが若槻と話している間はアイがケンを見ており、アイが若槻と話している間は、ケンがアイを見ていた。ケンはアイを不思議そうに見たが、アイはケンを核心に満ちた目で見つめた。そしてケンは、未だシオリを想っていながら、この五十嵐アイという不思議な少女に、何か運命的なものを感じているのだった。
「鈴本くん。若槻院長は、実は」
なかなか切り出しにくいらしく、アイは言葉を切ったまま立ち止まった。ケンも立ち止まり、振り返ってアイをしっかりと見つめた。
「うん。実は?」
「実は、」
アイは事実を、ケンに告げた。
「…なの」
アイは、薄い唇をきっちりと結んだ。ケンは動揺し、しばらく無言のまま、アイを見つめた。アイも何も言わなかった。二人の横を、数台の軽自動車がブウンと通り過ぎた。近くの歩道橋を、ランドセルを背負った子供たちが笑いながら渡っていった。セミがジリジリと鳴き続ける以外、それ以外の音や声は何も出なかった。
「五十嵐」ようやく、ケンが声を振り絞った。その震え声は、これ以上ないというほど掠れていた。「何を言ってんだよ。そんなわけねえだろ?」
「嘘じゃないの」アイは、はっきりと言った。「事実よ、鈴本くん。私たちがこれを知る、ずっと前からね」
ケンはアイから視線を剥がし、遠くの広告看板を見つめた。が、動揺する瞳には、何も映っていなかった。
ケンは座り込んで、学生鞄を放り投げた。
「嘘だ」
「嘘じゃないわ。事実よ、鈴本くん」
「嘘だ! 絶対に嘘だ! 信じないぞ!」
「鈴本くん」
アイは悲しげに、ケンを見つめた。ケンは頭を抱え、「嘘だ!」と繰り返し叫んだ。
やがてケンが突然落ち着き、静かになったかと思うと、ケンは両手で腹を抑えた。
「許さない、許さない、許さない…」
「鈴本くん」
アイがケンの腕にかけた手を振り払い、ケンはクリニックの方へ一目散に駆けていった。
「鈴本くん!」
「許さない! 絶対に許さない! あいつを、若槻を殺してやる!」
ケンは我を忘れて走っている。華奢な体のアイはすぐに息を切らし、バランスを崩して転んでしまった。ケンの姿は、あっという間に消えていった。アイの顎や両膝から、真っ赤な血が流れていった。
「鈴本くん…」
赤にまみれて、アイは細くて白い腕を、前方へと目一杯に伸ばした。