こんにちは、あすなろまどかです。
今回は、「あすなろの木」第十話です(もしかすると、最終話になるかも)。
一話完結型のエッセイなので、第九話を読んでいなくても大丈夫です。
第十話 ベールの奥の汚部屋
人は誰しも、知られたくない過去や秘密を隠し持っている。
暴こうとすると、相手はたいていサッサとどこかへ行ってしまうものだ。逆に、申し訳ないなと思ってそこに触れなかったり、もしくは相手に一切の興味がなく探ろうとせずにいると、ふっ、と、その相手が心の内を見せてくれることがある。
あるいは心のベールが、吹いてきた南風によってめくられ、ベールのうしろの過去や秘密が、チラリと見えることがあるのだ。
しかし、だからと言って、相手が完全に自分に心を開いてくれたなどと思い違いすると、あとあと自分が悲しい思いをすることになる。
けっきょく人間というのは、愚かで気まぐれなもので、心を開いても相手が来てくれなかったり、開いている相手の心を見ようとしたとたん閉ざされたり、わざと心にフタをしたり、人を避けたりしてしまうのだ。そんなことはしたくないと、どんなに自分自身で願っていても、そう簡単にはいかないのが人間なのだ。
私は、そんな人間の愚かさや気まぐれを、いとおしいと感じている。そんなふうに思い始めたのはつい最近のことで、ほんの少し前までは「愚かさや気まぐれは、人を傷付ける悪だ」と思っていた。それが、何年も人間をやっているうちに、少しずつ慣れてきた、ということである。
そんなことを考えると、今までなかなか無駄の多かった15年間も、考えようによっては、無意味なガラクタでは片付けられない大切なものと言えるだろう。
人生は、その全てが意味のある、重たいものとは限らないかもしれないのだ。逆に、意味のないことから得られるものの方が多いのではないか、という気さえする。
意味のない過去から大切なものを見つけ出すのは、容易ではない。過去というものは常に、心の片隅にグチャグチャと散らかっているからだ。過去はとても尊いものだが、それと同時に汚部屋でもある。だから人は、過去を秘密にして隠したがるのかもしれない。よほどの変人でない限り、汚部屋を見られて喜ぶことなどないからだ。
心というものは、その人だけのワンルームである。過去というアルバムが散乱され、秘密という宝物が棚に置かれ、人に見られないために、カーテンのようにベールが取り付けられている。そしてどんなに近いところにいる家族も、どんなに親しい友人も、どんなに愛している恋人も、そこへ入ることは絶対にできない。(基本的には)閉ざされている個室なのだ。
それがふとした瞬間に、ベールの奥が見えたなら、見れた人はラッキーだ。1度人に見られると、相手はますます警戒して、ベールを2枚重ねにしたりする。もう2度と、その人の心の中を覗いたり、場合によってはその人と仲良くできなくなるかもしれない。ないしはその逆で、その人と添い遂げるようなかけがえのない存在をつくることができるかもしれない。人間は、いつも絶妙なバランスを保ってこの世を生きているのである。
私は基本的に、エッセイを書くときは、心のベールを外している。ありのままの私という人間を、文章越しにさまざまな人に見せている。
これからも色んな人に、ベールの奥の汚部屋を見てほしいと思っている。それは少々恥ずかしいことだが、悪いことではない。それに、時には恥ずかしい部分を他人に見せることだって、生きていく上で重要な意味を持ってくると思うのだ。
(おしまい)