こんにちは、あすなろまどかです。
今回は、「あすなろの木」第六話です。
一話完結型のエッセイなので、第五話を読んでいなくても大丈夫です。
第六話 日々は人生の中に
近ごろ、よく考えることがある。それは、わたしの命はいつ途絶えるのだろう、ということだ。
そんな話をまわりにすると、大抵のひとは、なぜかわたしを心配する。
「死を予感しているのか?」
「もうすぐ死ぬことが分かっているのか?」
心配の気持ちが大きくなるあまり、
「死を考えているのか?」
と聞いてくる者までいる。
大切なひとたちに心配されるというのは、悪い気はしない。しかし、いつまでも心配させているのも、何だか申し訳ないものである。だからわたしは、このエッセイを書くことにしたのだ。
結論から書こう。わたしは、死を考えていない。たとえどんな天変地異が起ころうとも、それだけは絶対にあり得ない。みずから命を絶つという行為は、希望のようで絶望であり、社会貢献的なようで自己中心的なものである。誰が好んで、そんな馬鹿な真似をするものか。
では、なぜわたしは、自分の命がいつ途絶えるかを考えているのか。
答えは簡単である。日々は人生の中にしかないからだ。
ひとは必ずいつか死ぬ。早いか遅いかだけの違いである。その「死」という一種のゴール・テープを切ったとき、日々は終わりを迎える。人生は幕を下ろすのだ。当然のことである。
ひとが何かをできる時間や量は、間違いなく限られている。「何かを成し遂げる」というのは、日々の中にいるからこそできる芸当だ。だから、人生というものは大切なのだ。
わたしが何を言いたいか、もうお分かりいただけただろう。
そう、わたしは死ぬのが怖い。それは、死んでしまえば、もう2度と何もできないからである。そして、わたしが成し遂げたいことや挑戦してみたいことは、「人生」という日々の積み重ねに対して、あまりに多すぎる。
わたしがやりたいことは、山ほどある。
高校生活を楽しんで、好きな男子と結ばれたいという願望がまずひとつ。
それから、もっともっと、芸術に身を入れたい。勉強したい。世界を知りたい。たくさん詩や小説を書いて、たくさん漫画を描きたいのだ。
好きなものなら、いくらでもある。物語、論文、哲学、音楽、お笑い…。
宮沢賢治の童話を読みたい。
ビートルズもまだまだ聴きたいし、最近ひとめぼれしたホリケンだって、これから何度でも目にしたいのだ。CDやTV越しでも、わたしが彼らに伝える愛は変わらない。
愛と言えば、わたしは「ルパン三世」というあの素晴らしいアニメを愛している。ルパンだって、まだまだ勉強不足なのだ。もっとアニメを観て、もっと原作を読んで、「ルパン三世」を学問として研究していきたいと思っている。
…と、こんな具合に、やりたいことが本当にたくさんあるのだ。
あるひとには「欲張りすぎでしょ」と笑われた。
わたしも「欲張りすぎだよね」と笑った。それは自分でも分かっているのだ。だが、欲張らずにはいられない。
なぜか?冒頭で書いたとおり、日々は人生の中にしかないからだ。
今回はこんなところで、このエッセイを終わりにしよう。
たいへん申し訳なかったのが、気持ちがまとまらないまま書き殴ってしまったことだ。おそらく、前回のエッセイたちより遥かに質が落ちているだろう。
しかし、書き殴ったクレイジーな文章は、ときどき作者が気付かないけれど良質だったり、個性的だったりするものである。その「ときどき」が今回だと信じて、この記事を投稿しよう。
(おしまい)