私の収集対象で、選手紹介記事にもちょくちょく出てくるのが、
プロ野球ゲーム (プロ野球カードゲーム)です。
このカードは、タカラ社(現:タカラトミー社)が、1978年(昭和53年)から1998年(平成10年)まで販売した、ボードカードゲームです。
タカラ社といえば、ロングセラー商品が有名で、「リカちゃん人形」や「チョロQ」、「人生ゲーム」など手にとって遊べる玩具が強いイメージがあります。
1983年に、テレビゲームファミリーコンピューターの発売から、子供の玩具=テレビゲームが主流となっていき、プレイステーションが生産7,000台を突破した1998年に、タカラカードは生産終了を迎えました。
時代の流れと共に衰退していっていたカードゲームだったのですが、このカードはゲームをしなくても非常にみていて面白い。
今回は、そのデザインを、私の所持しているカードにてご紹介します。
●昭和53年(1978年)、昭和54年(1979年)版
ヤクルトスワローズが創立29年目で初の日本一に輝いたのが1978年。
ピンクレディーが全盛期で、UFOやサウスポーなど今でもポピュラーな曲が流行ります。
今回ご紹介するカードは、1978年 巨人 篠塚 利夫 選手、1979年 ヤクルト 水谷 新太郎 選手です。
篠塚さんは、1978年まで背番号「37」。翌年から期待を込め、「6」に変更されます。
そこから篠塚さんは巨人が誇る、ヒットメーカーとして成長していくのでした。
このカードデータを見ても、出場試合数18、守備ランク「B」と、これから首位打者2回、ゴールデングラブ賞4回、さらに無失策記録を続けた選手とは思えませんねw
そして、水谷さんは、1978年の日本一へ特に守備の要として貢献しました。
昨年、インパーソンでサインを頂いた際には、「おっ、めちゃくちゃ懐かしいカードだな。」と反応されていました。
1979年までは、選手の写真は小さいデザインでした。
選手にとっては、当時の表情がはっきりと分かる、人によっては恥ずかしいカードですねw
●昭和55年(1980年)版
この年は、王 貞治 選手が現役を引退。
国勢でいうと第一次湾岸戦争(イラン・イラク戦争)が9月に勃発しました。
モデルカードは、前年一軍未出場でカード化された、巨人 鈴木 康友 選手です。
この年から、一軍の試合に出場し始め、中日→西武と渡り歩きました。
篠塚さんをはじめとして、ブレイク前の選手をなぜカード化できていたのかというと、
タカラ社のプロ野球カード担当者はカード発行前年に、1チームごと球団担当者と打ち合わせをはじめ、
①翌年30名の人選(トレードなどを含め予備選手をピックアップ)
②4月から選手データの収集
③80試合くらいから選手の特徴の割り出し
を行っていたそうです。
12球団×30名=360選手分ですから、途方も無い作業です。ましては、当時はエクセルなどのパソコンでの管理もできなかったでしょうし。
1980年(昭和55年版)から、選手写真が大きくなりました。
●昭和56年(1981年)版
前年に藤田 監督に代わった、読売ジャイアンツが8年ぶりの日本一を達成。
ピンクレディが年度末に解散コンサートを後楽園球場で行いました。
この年のモデルカードは、当時1,2軍を行き来していた、中日 川又 米利 選手
川又さんといえば、背番号「23」の印象強めですが、入団から1982年まで背番号「46」
1985年にレギュラーを確保し、1988年のリーグ優勝に貢献します。現役晩年は、代打の切り札をまかされていました。
この年のデザインから、選手写真が丸型になり、
上部:年度、チームロゴ
中部:選手のバストアップ写真
下部左:名前、背番号
下部右:プロフィール詳細
と、デザインの基本体系が決まったように思われます。
●昭和57年(1982年)、昭和58年(1983年)版
マイケルジャクソンが「スリラー」を1982年に発表。ダンスが流行りました。
プロ野球では、所沢へ移転した西武ライオンズが24年ぶりに日本一。ここから西武黄金期が訪れました。
カードモデルは、
現在ソフトバンクホークのプロスカウトをされている 南海 藤田 学 選手(1982年)
今年から日本新薬の監督をされている 近鉄 吹石 徳一 選手(1983年) です。
BBM(ベースボボールマガジン)社のトレーディングカードが発売されたのは1991年。
お二人の引退はそれより前のため(藤田さんは1986年、吹石さんは1988年)
現役時代のカードを発行されているのは、カルビーのプロ野球チップスかこのタカラ社のプロ野球カードのみなのです。
藤田さんは、新人王の活躍もありカルビーでカード化されてますが、吹石さんはタカラではほぼ毎年ランクインするものの、カルビーでのカード化は実現していないようです。この辺も収集意欲を掻き立てる要員ですね。
この2年間は、選手のバックカラーがイエローと、中々奇抜な色が採用されていました。
●昭和59年(1984年)版
映画ターミネーターが発表されたは、この年。
阪神 掛布選手と中日 宇野選手がホームラン王争いをし、直接対決の際、両者とも5打席連続敬遠。さらに、2試合目も敬遠をし続け、両者とも10打席連続敬遠記録を樹立しましたw
モデルは、サッシーこと、ヤクルト 酒井 圭一 選手
甲子園での活躍で、超高校級選手として、1977年にヤクルトスワローズへ入団。
度重なる怪我で好調を維持できず、1984年から背番号は23に変更されます。
この年は奮起!中継ぎとして42試合に登板しました。きっかけ年のカードです。
背番号「18」の頃の酒井さんはカルビーで発行があるものの、「23」はタカラのみとなっています。
この年から、デザインを一新。このデザインが1995年まで採用されます。選手の背景が謎のボカシになりましたw
と、第一弾のデザイン編はここで紹介終了。
中途半端な年ですが、この年から発行終了年直前まで、マイナーチェンジがされていきます。
それを次記事の機会でご紹介できればと思います。