先日、祖母が亡くなりました。
私は結婚して20年目になります。お嫁にきて、7年間一緒に暮らし
たおばあちゃん。とてもかわいがってもらいました。
後の13年は叔母の家で暮らしました。
おばあちゃんは畑仕事が何より好きな人でした。お嫁に来たばかりの頃、畑に一番に実ったスイカを見においでと言われます。
手のひらにのるほど、とても小さなスイカがつるに実っているのを見て、とても驚いたのを覚えています。
私の作ったものをおいしいよと言って食べてくれたり。
買ってあげたものを着てくれた日には、友達に自慢したよと言ってくれたり。
自分へのもらいものでも、必ずと言っていいほど夫と私に分けてくれました。
飾らない、とても情に厚い人でした。
そして夫を(義理父が亡くなっているので)、自分の夫(おじいちゃん)よりも立ててくれていました。
ときどき私はおばあちゃんに共感することもありました。
短気で、怒ると口が悪くなるところ。
それでいて涙もろいところもあり、情け深いところ。
威勢がよく勢い任せなところもあれば、賢さ(人間としての)が垣間見られるところも。
ちょっと困らせられることがあっても、許してしまえる人でした。
おばあちゃんが家出をしたこともありました。
畑にあるプレハブに泊まるから、家に帰らないといって・・・。
おばあちゃんは何でも言ってしまうところもあれば、絶対に言えないこともあったんだと思います。
祖母は眠るように息を引き取ったそうです。
普段と同じ生活の中で、出かけた先でそのまま亡くなりました。
突然なのですが、いつもの生活の中で眠るように亡くなったことが何よりの幸せであったように思いました。
私にとってのおばあちゃんという関係の人は、もう誰もいなくなってしまいました。
ですが、この別れから感じたこと、悟ったことは数多くあったと思っています。
本来ならばうちで看取るべき人であったおばあちゃん。
それを、叔母さんに13年もの間看てもらったこと。
それは同時に叔父にも受け入れてもらった13年であったということ。
そして何より、おばあちゃんが幸せな最期をむかえられたのは、ふたりのおかげであったということでした。
ふたりのもとでなければ、むかえられなかった最期であったのではなかったのだろうか?という気持ちでいっぱいになりました。
夫と同じにそう思ったことを語り合った、お通夜の夜でした。
葬儀の日は喪主である夫と共に、ただひたすら家の者の務めを果たす気持ちでいました。
そして、足を運んでいただくすべての方たちに感謝をしました。
9年前祖父を見送ったときは、こんな気持ちにまでは至れなかったことを思い出します。
それは介護や看取りに関わる者と、そうでない者の違いなのかもしれないと思いました。
夫にとっては実の祖母なので、私とはまた違う思いがあることだと感じます。
私も嫁らしくなったな・・・なんて、自分で思ったりもしました。
誰かを見送るということは、その人の人生の終わりに関わるということです。
そのときにみえてくるものは普段考えもしないことや、故人を取り巻く環境、そしてその人自身であったりもするのだと感じます。
遅いということではなく、その人がいなくなってから理解できることやみえてくることも、たくさんたくさんあるのです・・・・・。