心の触覚に触れるものがなんなのか分からない。
実家にはたくさんの本がある。そのほとんどが僕がかつて読んだ本もしくは兄がかつて読んだ本だ。
本棚を眺める。気になるタイトルがみつからない。手にとる。棚に戻す。繰り返し。
好きなものというのは能動的にみつけようとしてみつかるものなのだろうか。
それはどちらかと言えば、私を奪い去るような、受動的な事態なのではないだろうか。小林康夫の言う「出来事」のように。

断片化している。その断片たちが繋がる可能性を信じてみる。それはパラノイアな態度のように思う。
断片と断片を無理に繋げようとして思考してきた。それらが架橋される可能性こそが革新的なのだと、信じてきた。構造的な溝。
しかしそれは思い違いなのかもしれない。パラノイアなのかもしれない。『動きすぎてはいけない』。

去年の夏、因果関係が信じられなくなった。その後ヒュームを読んで、なんとなく納得した気になって放り出していた問題。
「AとBが別様にも繋がるかもしれない可能性」などという可能性に夢を託そうとしてきた。その前に考えなくてはならないことが山のようにあることに気がついた。
願っていたことは「AとBが繋がらなくても済む可能性」だったはずだ。繋がることを希求しながら苦痛に思っている。別の仕方でもよいと赦してほしい。

偶然の結果バラバラに存在しているデータが、また偶然の結果つながる可能性を持つということ。
つながった結果、なんらかの名前によって名指すことができる関係が生まれるかもしれない。

いつも欲しいのはそうではなかった可能性だ。それはそうではないと言いたい。
I want to say it ain't so.

逃げ道。迂回路。井戸。

ああそうか。このうじうじとした感じは、今まで楽観的に短絡的に良いことだと考えてきたことがただの押し付けがましい決めつけだと直感してしまったからなのだろう。

考えるしかない。しばらくは研究が進まなそうである。しかし、それが自分らしい歩き方だろう。私は私のスタイルを崩したくない。私について私が信じられるものはそれだけだから。
パターンとは、私の見ている世界に予測可能性を与えてくれるものだ。
パターンがあるからこそ、私は私の世界に安住することができる。
冗長さとは、あるパターンの持つ予測可能性の高さのことである。
情報とは、既知のパターンを更新させたり、新たに形成させたりする暴力的な作用をもつものだ。
そこで、Bolzが述べたように、こう言うことができる。

情報は人を不安にさせる。対して、冗長でパターン化されたやりとり、すなわち「おしゃべり」は安心を与える、と。

パターンと対になるのはノイズである。ノイズは時として偶然という名を纏い、情報として私に作用してくる。
ここには不安と安心の緊張関係がある。
別の表現をすれば、未知への興奮と、日常の退屈の対立と言えるだろう。

この対立、緊張関係は、どのように働いているのだろうか。
どのように、私をかたちづくっているのだろうか。



いま、私が置かれていると認識しているパターンが中断されたときに、ノイズが、私に働きかけてくるようになる。
ノイズとは、それまでパターンの外側にあったものであり、主観的に区分されたものだ。
このとき、そのノイズには偶然という名前が与えられ、ノイズは情報になる。
偶然は、それを見る人の目に宿っているにすぎない。

情報とは、私の持っているパターンのデータベースを書き換えようとする作用である。
Batesonの言うように、情報とは、既存のパターンとの違いが、新たな違いを生み出すものだ。

たとえば、夜道を歩いている時に突然街灯が消え、真っ暗闇になったとする。
私は不安になるだろう。
それまで気にも留めなかった小さな物音にも敏感に反応するようになる。
そして、その物音がただの樹々の葉音であったと知ると、安心する。
なぜ安心するのか。
それは、未知の物音を、私の知っているパターンの中に収めることに成功したからだ。
このようにして、t≒0の予測を可能にする微分回路(中井久夫)によって、未知の事象を既知のパターンの中に回収していく。
この既知のパターンのデータベースとは、中井久夫の言う積分回路の変数である。

別のケースでは、カフェで読書をしているときに、それまで気にも留めなかった周囲の雑音(ノイズ)が、ふと耳に入ってくることがある。
そこで耳に入ってきた会話などが気になってしまい、私の読書は中断されてしまう。
言い換えると、カフェで読書をしている私という日常のルーティーン、つまりはパターンが中断されてしまう。

これが、あまりにうるさいといったタイプの不快を伴うものであったときは、不快を退け快へと向かうという自然な性向、言い換えると、いま置かれているパターンの持続性を阻害する要因を排除したいという性向にしたがって、その不快さを取り除く努力を行い、いま置かれているパターンの継続に努めるだろう。
この努力の最も簡単なものは、耳栓をしてしまうことだ。

では、単に不快であるというだけではない場合として2つのケースを考えてみよう。
まず、私の集中力が切れたことによって現在のパターンがほつれてきたというケース。
もうひとつは、その会話に含まれていた特定の単語が私にとって重要なものであり、現在のパターンを中断するだけの作用を有していたというケースだ。

前者の場合、私は、私の置かれているパターンの持続性が失われつつあるとき、周囲のノイズから、自分が別のパターンに置かれつつあることを認識しようとしていると解釈できるかもしれない。
(※ここでは、私は、常になんらかのパターンの内に身を置きたい、すなわち、冗長な、予測可能性の高い世界に安住したいと思っているという前提が置かれている。これは後段で述べることになるであろうが、本質的なものなのかもしれない。)

後者の場合はどう考えられるか。
私が重要であると感じている単語とは、私の持つ概念構造(概念と世界の照応パターン)のうち、欠損を感じていたり、より高い解像度を求めている概念のことではないだろうか。
そうだとすれば、ここでは、既知のパターンのどこかに、前者のケースと同様、ほつれが生じている。
パターンのほつれを修繕したいという志向性を私は事前に持っていて、そのアンテナに反応するシグナルを見つけようとしているのだ。
ほつれの修繕のために、現在のパターンを捨てる。
パターンのほつれは、それだけの必要性と緊急性を生じさせるのかもしれない。




私は、私の知っているパターンのデータベースのメンテナンスに必死なのだ。
なぜならこれは、私が描く世界のミニチュアであり、私が世界と両立性を保つ源泉だからだ。
この両立性が保たれなくなったとき、私は精神的な危機に陥るのだろう。
この危機とはどのようなものか、いくつかの素描を試みたい。

Batesonは自我の強さを、私がいま置かれているパターンがどれであるかを認識できる程度であると述べている。
そうであれば、自我の強さは、私が知っているパターンの数と、私が知っているパターンの安定性に依存している。

ここで、私がパーティに出席していて、運悪く、初対面のひとと二人きりになってしまったときに、運悪く、話しかけられてしまったときのことを考えてみよう。
よくあるのは「いやぁ、素敵なパーティですね」というメッセージだろう。
これがなぜ、よくあるのかといえば、このメッセージには「本当にそうですね」と答えればいいというお決まりのパターンがあることを私も相手も知っているからだ。

しかし問題は、これらのお決まりパターンが尽きてしまったときに、未だ会話を継続しなければならないときである。
なにを話せばいいのか分からない。
なにを話せばいいのか分からないのは、自分の発したメッセージへの反応の予測可能性が低いからだ。
二人の間に横たわるパターンがなんであるのかが分からないのだ。

これは、突然の暗闇のケースと同じ状況と考えられる。
すなわち、暗中模索の中で、相手の僅かな表情の変化などを漏らさず観察し、t≒0の予測――パターンを使えない予測――を行わなければならないのだ。
あまりに多くのノイズをシグナルとして拾ってしまう。
変数の数が多くなればなるほど、正確な予測に必要な労力は増大する。
この予測の結果がうまく既知のパターンの中に組み込めれば私の世界は安定する。
一度この手がかりをつかめれば、メッセージから新しい情報がもたらし、パターンを更新していくという健全な方向への道が開ける。
そうしてパーティがお開きになったときまでに形成されたメッセージのコンビネーションパターンを言語にエンコードしたときに、「知人」、「友人」、「協力者」、「愛」といった関係性として表現することが可能になる。

しかし、この微分回路はショートしてしまうかもしれない。
微分回路がショートした後に立ち現れるのは、予測の方法を失った私であり、その私に見えるのは混沌である。

私は、私がどのパターンに置かれているのか、手がかりを掴むできず、さらに、交わされるメッセージを組み合わせて、パターンを形成することもできなかったのだ。

このとき私は極度の不安の中にある。一刻も早く不安を解消したい。
逃げ出したい。しかし相手は私を離してくれなかったらどうすればいいのか。
ひとつの方策として、パターンから安心を調達するのではなく、相手から安心を調達するということが考えられるのではないか。
それはどのようにしてか。
そのひとつに、献身があるということは間違いではないだろう。
献身とそれに対する見返りという交換関係が成立すれば、この一回の交換限りの安心は手に入るだろう。

もし、この交換関係をひとつのパターンに形づくることができれば、メランコリー型対象関係が成立し、一応の安定性を確保することができる。このとき、私は「対他存在」という状態にある。
(この給付-反対給付のループが絶たれたときにうつ病を発症するというのが昔ながらの病因論であった。)

では、このパターン化も叶わなかった時、私はどうなってしまうのか。
内海健は、その病相を「他者存在」と表現した。
他者存在は、同調性を最大の特徴としており、相手との完璧な同調を目指すことによってのみ、自我の安定を図るというものだ。
これは、私は、私のデータベースを放棄し、相手と同じく感じ、振る舞うことによって、相手の置かれているパターンに同調ことによってのみ世界の安定を得られるという状態にあると言えるのではないだろうか。
ここにはもう、自我の強さは欠片もない。自我があると言えるのかも怪しい。
私はこのとき、カッコーの巣の上にいる。

私が成功の内にパーティから帰ることができたケースと、この最悪のシナリオを分けるものはなんであろうか。
自信という概念について検討することを通じてその答えを探りたい。

たとえば、自信がない、というのはどういう状態だろうか。
ひとつには、自分を信じることができない、すなわち、自分の見えない部分を上手く言い当てることができない、ということではないだろうか。
もうひとつ、自信がない、ということは、周囲の他者と比べて自分が劣っていると考えていることと関係しているだろう。

ひとつめは、自分の自分自身に対する関係についてのパターンの卓越の程度の問題である。
もうひとつめは、「重心が他者の側へと落ちている」(Schopenhauer)という問題であり、先に検討した論点と類似した問題である。

(眠さが限界なのでこの辺りで…)
負け癖が付いてるなぁ、と思う。
さまざまな嬉しい提案も、「自分にゃやり遂げられないだろうなぁ」から入ってしまう。

しょうがない側面が多いのだろうけど、こうやってイチイチ自分の可能性を潰している自分に気づくと嫌になる。
これまでどれほどの可能性が提示されて、これまでどれほどの可能性を自ら潰してきたのだろう。

ひとから可能性を提示してもらえるなんてありがたい機会には妙に恵まれていて、
そういった評価に対して素直になれれば、こんなにも卑屈な側面をもたずに生きられたのに。

気付いたら、卑屈でいること、「できない」と思うことが処世術のようになっていた。
そして、いつもその理由につかわれるのはこの、8年来の病気であって、
もしこいつが治りきったとしたら、なにに寄りかかれば・・・、どう言い訳すればいいのやら。
そんな風に思考してしまう、病気が治ることをどこかで恐れる程度には負け癖がついている。

どうしょうもないね。
嫌になる。

この悪循環のどこがレバレッジの効くトコなのだろう。
まぁ、結局「できる」と思うためにはそう思えるだけの基板-体調-が必要なのだから、
とりあえず、無理せずに療養しながら生きるためには、この言い訳も適切なのかもしれない。

こういう、悪循環、病気への依存に気付いてるだけ、マシなのかもしれない。