1890年10月、エルトゥールル号の生存者は、オスマン帝国への友好と親善のために派遣されることとなった、旧帝国海軍の軍艦『金剛』と『比叡』に分乗し、帰国の途についた

当時の日本とオスマン帝国に正式な国交は無かったが、欧米列強との不平等条約に悩まされ、価値感を同じくする国同士として交流はあった

エルトゥールル号の遭難とその生存者達が手厚い支援を受けたことに恩義を感じたオスマン帝国の人達は、のちに国名がトルコ共和国となってもその恩義を忘れることはなく、教科書で教えてきた


刻は巡り


1980年
イランのパーレビー王朝がイスラム革命で打倒されたことがキッカケで起こったイラン・イラク戦争

1982年から戦火は沈静化していたが、1985年に互いに都市を攻撃し合い戦火は再燃
激化していた

同年3月17日
イラクのサダム・フセインは、猶予期限を48時間とし、以降イラン上空を飛ぶ航空機は民間機、軍用機に関わらず無差別に攻撃すると宣言した

各国は軍、あるいは民間の航空会社を動員してイランから民間人の脱出を急いだ

この時、日本は法的にも物理的にも邦人脱出の術を持っていなかった

国内法によって自衛隊は海外への派遣は禁止されており、なによりも当時の自衛隊に、イランまで補給無しに飛べる機体が無かったのだ

政府は日本航空に邦人脱出のチャーター便を要請するも、日航はイラン・イラク戦争の開戦を機に定期便は撤退し、イランのテヘラン空港に職員は無く、チャーター便を飛ばせたとしても 現地でスムーズな管制の指示を受けられるのか、燃料の調達や機体の整備等はどうなのか?と、懸念されることがあり、なによりも日航の労組が乗務員の安全の担保が無い以上、組合としては許可できない…と、チャーター便の派遣に難色を示していた
(当時の国会での外相の言葉を信じるならば、日航のチャーター便はいつでも飛び立てる状態にあったらしい)


イランでは、日本人以外は続々と国外退避を進めていた

残された邦人達は迫る生命の危機と、助けにこない日本政府に対し半ば恐慌状態にあったという

そんな現地日本人に救いの手を差し伸ばしたのがトルコだった

日本政府が日本人を救出できないことを知ったトルコ政府は、自国民の救出を後回しにして日本人のイラン国外脱出に動いた

多数イランに残されている現地トルコ人達も決意した
日本人のためにトルコ航空の派遣した航空機の座席を譲ろうと…


駐イラントルコ大使ビルセル氏(当時)から野村日本大使の元に18日夕方電話がかかってきた

『明日、トルコ航空の航空機が二機 テヘラン空港に来ます、イランからの出国を希望する日本人全員を乗せられます、希望者の人数を教えてほしい』

野村大使を始めとした大使館員達は大急ぎで避難先に散らばる日本人を訪ね、帰国を希望する人達をピックアップした

フセインの宣言した期限まで時間はない…

野村大使をはじめとした大使館員達の夜を徹しての奔走により、19日 帰国を希望する日本人全員がトルコ航空の用意した二機に分乗、一機目がテヘラン空港を飛び立ったのは19時15分、二機目が飛び立ったのが20時

イラン領空を飛行する時間を考慮すると、フセインの定めた期限のギリギリであった…



古くは杉原千畝の例もあるが、国外で働く外務省職員(大使や大使館員)は至極真っ当な国家公務員だ

邦人の生命・財産を守るために、現場の大使や大使館員は東奔西走する

野村大使はイラン着任当初からもしもの事態に備え、各国の大使に国外脱出の際は日本人も考慮に入れてほしいと頼んでいた

イランに同じ日に着任したビルセル氏とは家族ぐるみの付き合いをするほどの間柄であったという

ビルセル大使と野村大使の交誼がなければこの脱出劇は存在しなかった

同様に、トルコ航空乗務員の使命感と、現地のトルコ人達の座席を譲るという献身
自国民の救出よりも日本人の救出を優先するというトルコ政府の対応を支持したトルコ国民…

この誇り高い精神性と、受けた恩を忘れない想いが無ければこの脱出劇は存在しなかった

偶然とも幸運ともとれるが、自分は必然であったと思う




けして裕福とは言えない漁村の人達の献身的な振る舞いが、時を経てカタチとなって返ってきた

この上ないカタチで…

刻石流水
かけた情けは水に流し、受けた恩は石に刻め

トルコ人と日本人は精神性がとても似ているのかもしれない