大社に隣接している古代出雲歴史博物館
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大社の境内から発掘された平安時代の柱
その柱から予想される当時の大社のミニチュア
平安時代の『口遊び』に、
雲太
和二
京三
という言葉があった
当時の建築物の大きさを現した言葉だそうだ
雲とは出雲 太とは一番で出雲大社のこと
和は大和(奈良) 東大寺大仏殿
京は京都 平安京大極殿
出雲大社の口伝によると、上古の昔 大社本殿の高さは32丈、中古で16丈 以降は8丈であったという
1丈はおよそ3.03m
古代の出雲大社の高さは100mに迫ろうかという高層建築物だったというのか?
創建時の東大寺大仏殿の高さは86m 現在(江戸時代に再建)で57m
当時の建築技術ではそんな高層建築は無理であろうという見解が一転したのが、前出の三本の柱を合わせた巨大な柱の発掘
天皇の住まう大極殿や、国の威信をかけて造営された大仏殿よりも大きく、高い建物が出雲の地にあった
記紀神話の伝える国譲りは本当にあったのだろうか?
そんな疑問が頭の中を支配する
賀茂別雷神社
古墳の中、土器の上にあって(土の中に埋もれていたわけではなかった)地元の考古学愛好家に発見された
出雲国風土記に記載されている、動植物や当時の人々の生活をジオラマで再現してあったり
島根県の各遺跡から発掘された数々の遺物が
展示されている
中でも目を引いたのが、
双龍環頭大刀
土に埋もれず、土器の上にあり、発見当初 鞘から大刀を抜くことができるほどに奇跡的な保存状態を維持していたという
1400年前 鉄を加工し巨大な建築物を建てる技術を持ったクニがあった
果たしてそのクニは本当にヤマト王権に国譲りなんてしたんだろうか?
続













