文藝春秋
富士山が火を噴く前には必ず地鳴りと地震の前触れがある
富士山のふもとの村に古くから言い伝えられていたとおり、宝永4年10月の大地震に続き、11月22日に大地震と地鳴りがあり、宝永4年11月23日、ついに富士山が大噴火します。
焼け砂が豪雨のように振り立てる中、村人たちは「持てるだけのものを持ち、牛馬を牽いて南へ南へと移動」します。
噴火活動は16日間続き、その間、砂が休みなく降り続いたといいます。
富士山麓では深いところで1丈5尺、浅いところでも3、4尺の砂が積り、田畑は荒廃。
幕府が決めた策は、この地を「亡所」として、年貢を取らない代わりに、民の面倒も見ない。
どこへと好きなところに行けというものでした。
若い者は沼津や駿府に働き場を得ますが、子どもと年寄りは砂の積もった土地で食べるものもなく、次々に飢えて亡くなっていきます。
駿東郡の代官に任じられたのは、関東郡代・伊奈半左衛門です。
伊奈家といえば、嫡宗伊奈忠次が、利根川の東遷という大事業を成し遂げた、実務家の家系。
「もし、富士山が大爆発して降灰の被害が出たとすれば、その後始末ができるのは自分しかいない」と直感したと本書にはあります。
この人が、孤軍奮闘という感じで、農民のために手を尽くすのですが、幕臣たちの多くはこの天災を政争の道具としか考えていません。
いや~
みんな、小せえ、小せえ
著者の新田次郎さんは、1932(昭和)7年、中央気象台(現気象庁)に入庁後、富士山観測所に配属されます。
宝永噴火と代官伊奈半左衛門との関わりはその頃、聞いたそうです。
地元に伝わっていた話は、「宝永噴火のため田畑が砂に埋まり、農民が餓死に瀕しているとき代官伊奈半左衛門は、駿府にある幕府の米蔵を開けて餓民を助けたが、その咎を受けて幕府に捕らえられ、江戸へ送られて、死罪になった」というものでしたが、いざ小説にしようとすると、記録には残っていなかったということです。
しかし、作者は被災地には江戸時代から伊奈半左衛門を祀った小祠があちこちにあることなどからも、この話は実際にあったことなのではないかとにらみます。
史実にはない庶民の暮らしも織り込まれ、読み応えのある作品でした。
おつき合いありがとうございます。