作家、高橋源一郎さんの文学論です。
タカハシさんが読むのはいきなり「オウム」。
麻原彰晃が語る言葉の貧しさを論じ、では、わたしたちがふだん目にする言葉の大半もまた、同じではないのかと書かれてるのは20年以上前なのですが、ネット時代の今、言葉はもっと貧しくなっているのかもしれません。
「武者小路実篤全集」を1週間、練馬区貫井図書館に通って読んだ、「実篤ウィルス」感染の恐怖は、わたしが「実篤」をほとんど読んでないせいか、いまひとつおもしろさがわかりません。
しかし、私は日経読者。
『失楽園』(渡辺淳一)は、新聞連載時に読んでるんです。
さすがにつまらなかったので、単行本では読んでないんですが、タカハシさんの批評がおもしろい。
まず、読書好きの人に感想を聞くと
「ゴミ以下」「読者をなめきってる」「こんな小説を読んだことを早く記憶から消し去りたい」
次に、タカハシさんは小説を実際に読んでいきます。
そして、表現の重複、語尾の単純さ、使いまわされた言い回しなどを指摘し、新人文学賞に応募してきたら、最初の8行目まででアウト!とバッサリ。
小説は(文学は、広くは本は、といいかえてもかまわぬが)言語だけでできている、だから使用されている言語がダメなら、その小説は(文学は、広くは本はといいかえてもかまわぬが)アウトなのである。このことに例外はない。
そして、『失楽園』の中で文学が殺されていたことを発見したタカハシさんが気づく、最後のトリックとは……
なるほど、小説ってこういうふうにも読めるのか。
◇◇◇
「酒鬼薔薇事件」声明文と片岡義男『日本語の外へ』を読んで考える、日本語の「うちむき」という特徴を論じた「文学の向こう側Ⅰ」、加藤典洋の『敗戦後論』の感想を加えた「文学の向こう側Ⅱ」も考えさせられる内容でした。
朝日文庫
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