著者の名前は聞いたこともなかったのですが、長野県上田にある「無言館」の館主だといわれると、ちょっとわかります。

 

太平洋戦争開戦直前の1941年、作家・水上勉の息子として東京で生を受けた窪島さんは、2歳ちょっとで養子に出されます。

 

明大前で靴修理店を営む養父母は貧しく、成績が悪かった窪島さんは、進学せずに働くはずでした。

しかし、熱心な担任のおかげで、高校への進学がかないます。

 

卒業後は仕事を転々とし、21歳のときに実家で始めたスナックが大当たり。

それから、絵を集めはじめ、画廊を経営するまでになります。

 

夭逝画家の素描を展示する「信濃デッサン館」を開設したのが1979年、1997年には戦没画学生慰霊美術館「無言館」を隣地にオープンします。

 

 

80歳を前にして、いくつかの病を得、健康の衰えも感じたころ、大切に集めてきた「信濃デッサン館」の作品約400点の大半を、新・長野県立美術館に寄贈、一部を売却するという話が進み、コレクションを手放すことになります。

 

窪島さんが絵を集めて全国を訪ねる旅は、実の両親を探す旅でもありました。

 

病による喪失とコレクションを失うこと

 

窪島さんがこの自伝を書かざるを得なかったのは、何かを残しておきたいという欲求からでしょうか。

 

〈尾島真一郎〉という仮の名前で、私小説のように書かれた自伝は、赤裸々で、ありのままに伝えたいという真摯な意志を感じます。

 

戦後がむしゃらに働き、とにかく貧乏から抜け出そうとした半生は、かなり上の世代の方のものなのに、どこか懐かしいのです。

 

 

太平洋戦争の開戦の昭和16年に生まれ、昭和二十年八月の敗戦、その後の経済成長時代を生き泳ぎ、何とか現在の衣食足りる生活を築くに至った私の「サクセス・ストーリー」は、おそらく「昭和」という時代がなかったら生まれなかったものかもしれません。私の脳裏には、あっちの岸にぶつかりこっちの岩にぶつかり、時には岸辺のツタにひっかかって身動きがとれなくなり、何かの拍子にふたたび川の流れに押し出されたりしながら、ようやく「昭和」という時代の河口に辿りついた一本の流木がみえるようなのです。(本文より)

 

 

2022年3月30日発行
白水社
 

 

窪島さんがたくさん集めていたという、画家の村山塊多の詩集も読んでみました。
 
世界の詩70《村山塊多詩集》
昭和49年5月30日
彌生書房
 
 
一本のガランス
 
ためらふな、恥ぢるな
まつすぐにゆけ
汝のガランスのチューブをとって
汝のパレットに直角に突き出し
まつすぐにしぼれ
そのガランスをまつすぐに塗れ
一本のガランスをつくせよ
空もガランスに塗れ
木もガランスに描け
草もガランスにかけ
魔羅をもガランスにて描き奉れ
神をもガランスにて描き奉れ
ためらふな、恥ぢるな
まつすぐにゆけ
汝の貧乏を
一本のガランスにて塗りかくせ。
 
 

村山塊多は大正7年、22歳の若さで、風邪のため死亡。

 
奇行が目立ったという塊多。晩年(といっても20代)友人の絵具箱からガランス(やや沈んだ赤)を「一寸」といっては借り、パレットにしぼりだしてはぷいと写生にでかけてしまった、とありました。
 
 

 

 

 

 

 

 

 

お読みいただきありがとうございます。