2010年に刊行された〈永遠の詩〉シリーズです。

近・現代を代表する詩人の厳選した詩が紹介されています。

 

永遠の詩01 金子みすゞ

永遠の詩 (全8巻)2 茨木のり子

永遠の詩03 山之口貘

永遠の詩04 中原中也

永遠の詩05 石垣りん

永遠の詩06 宮沢賢治

 

07は朔太郎の詩から58篇を選び、現代仮名遣いで紹介し、詩人・高橋順子さんの短い解説が添えられています。

(詩の解説なんてあんまり読まないんだけど)

 

巻末に載せられたアーサー・ビナードさんのエッセイもよいのです。

 

「心」の定義について、ぼくはよく考える。あるいは、日常的に悩んでいるといってもいいかもしれない。
日本語を英訳していて、原文に「心」か「こころ」か「ココロ」が出てくれば、さて、これは実際どういうシロモノかと、一旦停止して探らなければならない。

 

ビナードさんは、「心」を言葉で捉えようとする際、手がかりにするものとして、精神分析、宗教などをあげながら、むしろ文学から入ったほうがいいのではないかといいます。

そして、「日本語の文学において、最も多面的に粘り強く「心」と向き合ったのは、萩原朔太郎だろう」というのです。

 

こころ

こころをばなににたとえん

こころはあじさいの花

ももいろに咲く日はあれど

うすむらさきの思い出ばかりはせんなくて。

 

こころはまた夕闇の園生のふきあげ

音なき音のあゆむひびきに

こころはひとつによりて悲しめども

かなしめどもあるかいなしや

ああこのこころをばなににたとえん。

 

こころは二人の旅びと

されど道づれのたえて物言うことなければ

わがこころはいつもかくさびしきなり。

 

医師の家に生まれ、その家業は継がなかったけれど、聴診器の使い方は見事だ。いや、「聴心器」と表記したくなるほど、朔太郎の「音なき音」を聞き取る勘は鋭く、自身の胸中の減少と周りの光景が、同じ音階にぴったり重なった瞬間、詩の情景は生まれる。

 

水の流れと心の流れが合流すると紹介される「利根川のほとり」という詩もとてもいいです。

 

 

利根川のほとり

 

きのふまた身を投げんと思ひて

利根川のほとりをさまよひしが

水の流れはやくして

わがなげきをせきとむるすべもなければ

おめおめと生きながらへて

今日もまた河原に来り石投げてあそびくらしつ。

きのうけふ

ある甲斐もなきわが身をばかくばかりいとしと思ふうれしさ

たれかは殺すとするものぞ

抱きしめて抱きしめてこそ泣くべかりけれ。

 

 

 

 

 

 

お読みいただきありがとうございました。