2010年に刊行された〈永遠の詩〉シリーズです。
近・現代を代表する詩人の厳選した詩が紹介されています。
07は朔太郎の詩から58篇を選び、現代仮名遣いで紹介し、詩人・高橋順子さんの短い解説が添えられています。
(詩の解説なんてあんまり読まないんだけど)
巻末に載せられたアーサー・ビナードさんのエッセイもよいのです。
「心」の定義について、ぼくはよく考える。あるいは、日常的に悩んでいるといってもいいかもしれない。
日本語を英訳していて、原文に「心」か「こころ」か「ココロ」が出てくれば、さて、これは実際どういうシロモノかと、一旦停止して探らなければならない。
ビナードさんは、「心」を言葉で捉えようとする際、手がかりにするものとして、精神分析、宗教などをあげながら、むしろ文学から入ったほうがいいのではないかといいます。
そして、「日本語の文学において、最も多面的に粘り強く「心」と向き合ったのは、萩原朔太郎だろう」というのです。
こころ
こころをばなににたとえん
こころはあじさいの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思い出ばかりはせんなくて。
こころはまた夕闇の園生のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかいなしや
ああこのこころをばなににたとえん。
こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言うことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり。
医師の家に生まれ、その家業は継がなかったけれど、聴診器の使い方は見事だ。いや、「聴心器」と表記したくなるほど、朔太郎の「音なき音」を聞き取る勘は鋭く、自身の胸中の減少と周りの光景が、同じ音階にぴったり重なった瞬間、詩の情景は生まれる。
水の流れと心の流れが合流すると紹介される「利根川のほとり」という詩もとてもいいです。
利根川のほとり
きのふまた身を投げんと思ひて
利根川のほとりをさまよひしが
水の流れはやくして
わがなげきをせきとむるすべもなければ
おめおめと生きながらへて
今日もまた河原に来り石投げてあそびくらしつ。
きのうけふ
ある甲斐もなきわが身をばかくばかりいとしと思ふうれしさ
たれかは殺すとするものぞ
抱きしめて抱きしめてこそ泣くべかりけれ。
お読みいただきありがとうございました。