「本を読んでいる人の姿は美しい」で始まる本書は、それだけでうれしくなってしまう。

「両手のひらを天に向け、背を丸め、こうべを垂れる。それはほとんど祈りの姿勢のようだ」と続く。

 

前半はじっくりと本を読める場所がないことへの不満がたらたらと続く。

おもしろがって読んでると、後半は一転ビジネス書の様相を呈してくる。

 

フヅクエを始める前、びっしりとメモを取りながら読んだという『新宿駅最後の小さなお店ベルク』や西国分寺のクルミドコーヒー『ゆっくり、いそげ、カフェからはじめる人を手段化しない経済』に言及があるのも楽しい。

 

「読書というのは往々にしてとても些細な部分が印象に残ったりするもので」とあり、『イシューからはじめよ』のそれは、「脳は「なだらかな違い」を認識することができず、何らかの「異質、あるいは不連続の差分」だけを認識する」という部分だったという。

 

この部分から、パソコンのクリック音やボールペン関連の音がなぜ読書を妨げるかについて納得を得て、それらの音を店から排除することになる。

 

「おわりに」では、保坂和志『この人の閾』P68-69からの引用で、真紀さんという、だれも読まないような長い長い話や哲学の中でもしつこいタイプのものを読むという人が出てくる。

 

「真紀さんこれからずーっとそういう本を読むとしてさ、(中略)いくら読んでも、感想文も何も残さずに真紀さんの頭の中だけに保存されていって、それで、死んで焼かれて灰になっておしまい—っていうわけだ」

「だって、読むってそういうことでしょ」

 

「手のひらを天に向け、背を丸め、こうべを垂れる。

ほとんど祈りのような姿勢のままじっと身じろぎもせず、ひとり静かに本を読んでいる、そんな美しい人たちによって生み出される静かな熱狂。それこそが「本の読める店」が見せてくれた読書の公共圏の姿だ」P239