以前、ポピーさんが記事にして下さった
「かがみの孤城」を読みました。


読み進めると、
お子さんの不登校や虐めの体験がある方には、
心がギュッとして、閉じてしまうこともあるかもしれません。


それでも、休み休みでも
いつか読み進めて欲しいと感じました。



最後には、
温かい気持ちに包まれるお話でした。





なかなか親や兄弟、周りにいる身近な人には
本心を「明かさない」「明かせない」のは、
遺族となった私自身も感じていること、


変わらない状況の中で、

これ以上がっかりしたくない。
これ以上ざわつきたくい。
これ以上悲しくなりたくない。
これ以上揉めたくない。
負荷をかけたくない、、、

まだまだ複雑な感情が渦巻きますもんね。





私が思うよりも
ずっと、ずっと苦しい中に
いるのだとは思います。


軽々しく「同じ様な感情もある」
なんて言ってはいけないほど。


でも、少なくとも
愛する子を見送る前よりは
抑圧された苦しみへの共感力は
増していると思います。








辻村さんの寄稿にある言葉に、

今、これを読んでいる嵐の只中にいるあなたにも、どうかしがみつける何かがありますように。荒れた海を泳ぎ切って、どうかこちらの岸まで辿りついてくれますように


とありました。




「しがみつける何か」

もなかなか難しいかもしれません。




実は身近なところにあるのかもしれません。

気付けるか、気付けないか、

見ようとするか、しないか、

信じてみようとするか、しないか、



そして、

一歩の勇気を出すか、出さないか、




言葉で書くと、

とっても些細なことに見えてしまいますが、



その一見些細なことが

とてつもなく怖くて大きなもの。




そして、

どれにしがみついたらいいのかさえ

分からなくて

しがみつくのが怖いと思うけど、




先ずは、

ほんの小さなことにでもしがみつき、

あっ!こっちかも!と思ったら

またしがみつき、


手探りしながら

荒れた海を泳ぎ切って欲しいです。














私の場合、

遺族としての荒れた海の中で、


同じ悲しみを持つ人達にしがみつき、

見えない子の存在を信じる人にしがみつき、

今があります。




そして、ある時から


しがみつくのではなく

心の奥に常にあるもの、

安心できるものに

変わってきたように思います。






いつか、

しがみつく手が緩む時が来ます。










そして、次男に対しては、

「しがみつくもの」を見つけられなかったのかもしれないけど、、、


「時を待って欲しかったな」

と本を読んで改めて思いました。



元々、そう思って待ってました。

今、このモヤモヤの時期を

やり過ごして欲しいと。


「時」が過ぎれば、

周りの人も変わるし、

出会うことも変わるから。



ゆるくでいいから

もう少し、

この世にしがみついて欲しかった‼️



今は、貴方がいる世界とも繋がって

貴方の気持ちも受け取ることも出来るけどね。








お母さんはなかなか諦めが悪いです。

タラレバはどうぞ聞き流してね。




どこに居ても、

手が届かなくても、大好きだから。