私にはふたりの祖母がいます。
父方の祖母と母方の祖母のふたり。
父方の祖母は、私が高校生の時に死にました。
私が中学生の時に脳溢血になり、それ以来寝たきりの生活でした。
当時は現在のようにリハビリなどをして少しでも動けるようにする考えはなく
祖母は、毎日自宅の天井をみつめながら生きていました。
祖母は、とても気丈な人でした。
そして感が働き、頭の回転も速く
商才に長けていました。
祖母は、私が生まれる前から、自ら自宅前を改造し
駄菓子屋を立ち上げていました。
商売熱心な祖母は、駄菓子だけでなく、日用品も扱っていました。
当時なかなか免許が取ることが難しかったたばこ、塩、切手なども
認可を受け、販売し、家の前にはポストまで立っていました。
夏になれば、かき氷までやっていました。
店先に「かき氷」の旗をかかげ
軒下には、大きな縁台までおいていました。
我が家は、いわゆるメインストリートにある店ではありませんでしたが
祖母のニーズにあった品揃えで、それなりに繁盛していました。
とりわけ、かき氷をはじめる盛夏には、大変な賑わいで
私たち孫まで、手伝いに駆り出されていました。
祖母が作る金時氷は、それは評判で、
安くてうまいと遠くからも人がやってきていました。
祖母は、とにかくあんこを作るのがほんとに上手かった。
お正月の餅つきの時は、出来立ての餅にあんこを入れて大福をつくってくれたり
春には、よもぎを摘んできて、草餅を作ってくれた。
あまりたくさん作るので、知り合いに配ると
空になった重箱には、届けた私のためにお駄賃が入った小袋があった。
だから、祖母に持っていくように言われると喜んで届けた。
祖母は、働き者で、そしてとても手先の器用な人だった。
暇ができると内職の縄を編んだり、いらなくなった布で雑巾を作っていた。
ある時、祖母が「たくさん雑巾を作ったから、学校へもっていくように」と
100枚はあろうたくさんの雑巾を私に預けようとした。
私は、それを言われて「イヤ!」と断った。
なぜか、雑巾を持っていくことが恥ずかしかったのだ。
そして翌朝、全校生が集まる朝礼で、校長先生が
「昨日、在校生のおばあさんが、みんなのために手作りの雑巾を寄付してくださいました」と言うではないか。
あとで、聞いたら、祖母は母を伴い、私が通う小学校に出向き、雑巾を渡してきたのだ。
それが話題になり、新聞社も駆けつけ、写真付きで新聞にも掲載された。
私は恥ずかしいだけだったが、祖母は、いつも「雑巾」と言って母に要求していたのを聞いていて
きっと学校にはたくさんの雑巾が必要なんだろうと思い、寄付しようと思ったらしい。
そんな祖母の偉大さに気づき、恥ずかしがっていた自分を恥じた。
おばあちゃんっ子だった私は、お祭りのときは決まって祖母と縁日に行った。
そこで祖母は、ビニールでつくった造花を買ってくれた。
造花には、うっすらと香料が掛けられ、子供ながらなんとなくうっとりしていた。
そんな祖母が、病に倒れ、寝たきりになった。
おばあちゃんっ子だった私は、学校から帰ると、真っ先に祖母の枕元に行き
今日あったことなどを話していた。
祖母は、それを目を細めて聞いてくれ
時々、布団の下に忍ばせていたお金を私にくれた。
そして明け方、祖母は死んだ。
悲しくて、悲しくて、祖母の死顔をすぐに見ることはできなかった。
祖母はいつも私に言っていた。
「おまえは、あわてものだ。もう少し考えて行動しなさい」と。
きっと、その性格はいまも変わらないだろう。
「ばあちゃん、私もばあちゃんの年頃になった。
少しは、考えて、落ち着いて行動しているよ」と
小さな声で、ささやいた。
きっと天国にいる祖母は
「まだまだだよ」と言って、たしなめているに違いありません。