気力のない私が、強い抗がん剤治療を行って
いい結果を得られずはずがない。
私は、日毎に痩せていった。
60kg以上あった体重が43kgまで激減していた。
食事は何も手につかなかった。
食欲がない。食べても吐いてしまう。
と言うことではない。
食事まで箸を進めるだけで、息切れし
食べ物を口に入れようとした時、
エネルギーが底を尽きているのだ。
これは決して大袈裟に表現しているのではない。実感だ。
その時初めて、食べるという行為そのものに
エネルギーが必要だと知った。
脱け殻のようになった私に
なぜか手を差し伸べる人が現れた。
自然食を提供しているキッチンのオーナーシェフだった。
どこで聞きつけたのか、私の現状を知り
なにか食べられるものはないかと、わざわざ
作り、病室まで運んでくれたのだ。
手作りのパンドール、空豆など有機無農薬の野菜を中心としたサラダなど、バスケットに入れて持ってくれた。
どうしたことか、あれほど手に付かなかった食べ物が、口に入っていった。
それから、時々彼女は店がオフの時に、来てくれるようになった。
食べられるようになって
私のことを気にかけている人がいる。
とにかく生きなくちゃいけない❗
と、思った。
しかしながら、私の容態はあまり芳しくなかった。
高熱が続き、白血球値が極限まで低下し
死線をさまようになっていた。
これは夢だったのか、いまでもよくわからない。
目の前に父母が現れた。
川の向こうでふたりはニコニコしながら手招きをしている。
二人の後ろには菜の花などの草花が咲き並んでいた。
あぁ、これが世に言う臨死体験なのかと思った。
しかし、父はすでに死んでいるものの
母は健在だ。
どうしたものだと思っていると
目が覚めた。
時は夕方だった。
窓をみると、空は夕焼けで真っ赤だった。
なぜか、それを見て私はさめざめと泣いた。
生きている❗❗
と言うことに、ほんとうに感動したのは、
この時が最初で最後だったような気がする。
後から聞いたのだか、やはりこの時私は
生きるか死ぬかの間際であったようで
夫が、どうにかして助けて欲しい❗と懇願していたと、後で看護師さんから聞かされた。
私は生かされたのだ。
私の命は、私のものではないと思った。
これからは、この与えられた命を大切に
精一杯生きなければと思った。
次回につづく。