又右衛門は黄洟(きばな)を垂らし皹(あかぎれ)でヒーヒー泣き喚いていたガキの頃から、畳に貧乏が沁みついたような家庭で育ったせいか、オツムは下等動物なみのくせに、僻み根性だけは人一倍強い。困った性格だが、齢七十を超えた今となっては、そうした性分をみずから矯正しようなどという殊勝な心がけはさらさらない。(*ただし、原節子さんのような上品で美しい女性に「あなた、それはいけないことよ」などと諭されたら、もう一もニもなく宗旨替えするだろう、(にこにこ))。とにかくに他人様の言うこと為すこと、なにかとケチをつけたくなる。いつかは舌切り雀に呼び出され、減らず口から舌を引っ張り出されて、チョキンと切り落とされるに違いないが、あの世とやらへ単身赴任する前の幕間のひととき、世の人のすなるブログとやらを遺書替わりに書き散らしてみることにした。ブログであれ論評であれ、立ち位置の不明確な雑文があふれかえっている昨今些か不満を拗らせてきた者として、まず最初に吾輩の社会的嗜好と政治的好悪について闡明しておこう。いわゆる「学者・文化人」と称される輩は大嫌いである。もともとこの「学者・文化人」は特定の政治集団の好んだフレーズで、見方を変えれば昨今流行の「御用学者」とほとんど同義語ともいえる。政治的にはどちらかと言えば「自民党寄り」、さはさりながら選挙にあたって毎回自民党に一票を投じてきたわけではない。前回総選挙では民主党の候補に入れた。パチンコ業界から献金を受けているというとかく噂のたえぬ人物であったが、小選挙区制の意図した「政権交代」の実現を重視したからに他ならない。とはいえ、ここでも「ああ言えばこう言う」僻み根性が政治的選択の中心原理となっている。ありていに言えば、何事につけ天の邪鬼であり、他人様の目には八方破れのひねくれ者と映るに相違ない。


2012年5月1日(晴れ)

さて、大阪市長の橋下さんのTwitterをつらつら眺めていたところ、「了解とか了解しましたというのは目上の人が下の人に対して使う単語」であるからして、言葉づかいに気をつけるよう橋下市長に忠告している、なんとも親切な(ある意味おせっかいな)御仁のツイートが目にとまった。市長は(根はまことに素直な人物らしく)「承知しました」と返信しているが、吾輩もそのような語法にはまったく無知で初めて知った。

しかししばらくすると俄かに例の僻み根性がむくむくと頭をもたげてきた。「ホンマかいな?」


そこで、さっそく岩波の「広辞苑」をひもといてみた。(*「広辞苑」を本格的な国語辞典とするには異論がある


りょうかい(了解) さとること、会得すること。領解。(Verstehen ドイツ)文化的産物を心的生活の表現とみて、その意味をとらえること。ディルタイはこれを精神科学の根本方法とした。


Twitterの御仁のいうような「了解」を人間の社会的上下関係のなかで用いるとする説(ないしは習慣)は本当だろうか?それはたんに営業に神経を尖らせる人々のあいだでの通念もしくは業界用語ではないか?それとも最初に一読した際に感じた違和感は吾輩の教養の欠如の所為だろうか?もしそうだとすると、例えば「了解事項」ということばは上下関係にある者同士のあいだでの理解を意味することになるのだろうか?吾輩の語感の指し示すところ、「了解」はむしろ価値中立的な関係性のニュアンスを含意しているように思われてならない。上下関係を意識しない自己確認、それゆえにこそ気難しい顧客に対しひょっとしたら失礼になりうるという馬鹿丁寧な営業マニュアル風な話ならすこしは分かる。思うに、パイロットが管制官の指示に対し”Roger”と答える、それに近いものではないか・・・。もし、そうでなければディルタイのVerstehenの訳語に「了解」を当てたのは誤訳の誹りを免れえないであろう。博識な学者先生の教えを乞いたいものだ。