周知活動を少しずつ始めて報告がてらのブログを書いて下書きにしまっていたけれど


池袋暴走死亡事故に判決がくだされ亡くなられた娘さんの父親で亡くなられた女性の夫の松永さんの最後の会見を観て。。。


良かった、と思う気持ちと戻らない大切な事を知っている松永さんに良かった事は無いに等しいよね、と胸が痛い。


人を憎んではいけない、と言ってる人に

私は近付かない様にしていて、理由は


憎む気持ちを無理に取り上げる必要は無いと思ってるからです。


勝ち負けの部類で相手を何クソ、今に見返してやる、と憎しみをバネにする努力と違い


人としてどうかと言われても失くしたものを埋める事など殆んど存在する事は無くて


悲しみや虚無感だけに覆われ2度と光を見ようとしなくなる人を


第三者からの何かではなく、その人自身で支えるのには憎む感情の持つ力は大きいと思う


憎む相手を傷付ける事が憎しみの全てでは無いし、憎しみを持つ時間の中で憎しみを薄め


やがて忘れる時間が増えて、それでも思い出す時にチクチクとした痛み程度にはやっぱり有っても悪くないと思う


生きている限り忘れる事など出来ない程の大切な誰かや事やモノを突然傷付け、奪った相手を記憶から消し去ることなど


全ての悲しみが起きる一瞬前に戻れる権利を与えられない限り…綺麗事言って満足してるだけなんだろうなと思ってしまう


そんな消化の仕方もあるんだろうとは思っても私からそう考える人に掛けたい言葉は見つからないし、何の接点も持ちたくない


松永さんは裁判の以前から今度の裁判で終わりにしませんか、とそうご自身で決めてらしたと思うし


その事が叶った形で良かった、と思います

裁判が終わって本当に 良かった


判決翌日の朝、目を覚ます、出勤の準備をする、玄関に立つ、ドアを開ける、一歩家の外に出る…


どの瞬間も、事故が起きてしまった日の朝の風景の中と一緒にはならない事を松永さんは理解して


裁判だけでも終わりにして欲しい


と言われていたんだと思う。


これから玄関を出て閉める扉に、


何にも煩わされず、悩まされ苦々しい気持ちの欠片も持たず


行ってくるねって言いたくて言えていたら


扉の向こう側にだけ事故より前の松永さんちの風景は松永さんの心の中に戻っていたりするのかな


外側からは見えにくいだけで被害者は望みもしないのに始められてしまった悪事と加害者から投げ付けられる悪意の片付けを強いられずっと苦しんでる