今年最後の最後にとっても大事な事に気がついてここに記す。

 

 

 

 

私は、ご縁の深い相手である彼の事についてどこかでまだ

 

彼を近くに留めていたかった事に気づいたのだ。

 

 

過去に何があり、未来に何があったのかはっきりは分からないけれど、

 

心の内側にずっとチラつくこの想いは何かと思っていた。

 

 

これは私が彼に対する執着心なのではないかと自問自答していた。

 

 

正直、彼についてはどうでも良いと、何度も思った。

 

いっその事、自分に好意を持ってくれる人がいるなら、

 

その人と一緒になっても良いと思った。

 

 

ただ、どうしても、

 

 

”本当にそれで良いの?”

 

 

と言う問いが生まれてしまうのであった。

 

 

今まで何度か恋愛をしてきたけれど、

 

離婚をした旦那に対しても、そこまで別れに対して、悲しいとなかなか思わなかった。

 

薄情かな、仕方ないとあっさり受け入れてしまうのだ。

 

 

ただ、この相手は明らかに心に突っかかる。

 

これはどうしてなのかと不思議でならなかった。

 

これは執着なのではないかと何度も自問自答した。

 

 

ここ1年ほど、自分の環境もガラッと変わり、彼との関係も保てなくなってから、

 

どうにか関係の維持をしていたのだ。

 

 

それにより、私の心は窮屈さを感じていたのに、

 

でも、これで良いのか?とどこか心が問いただしてきていたのだ。

 

 

 

その問う心がまさか長い過去から未来にかけてのご縁で蓄積された記憶の断片でしかなかったと気づくまで

今日までかかった。

 

 

私は過去の私達を夢を通して垣間見たような気がしたのだ。

微かな記憶としてあるのだろうと、疑わなかった。

 

 

彼とのご縁は今に始まった事ではなかった。

 

とてつもなく長い時の中で、私達は何度も会っている。

 

 

そして、また未来でも会い続けるのであろう。

 

 

この生は私の未来を含めた歴史の中でたった一瞬の出来事であろう。

 

 

この生で、私は魂の同志と共にこうしてお互いの背中を押し合い

 

向上できる時をまさに生きているのだ。

 

 

 

魂の伴侶について、今になって本当に府に落ちたのが今であったのだ。

このブログで今まで書いてきた事は、自分の直感でしかないが、

 

 

実際に府に落とされたのはなんと今であった。

 

 

 

 

魂の伴侶や同志と言う存在は実在する。

 

ただ、それはこの生で必ず結ばれると言う事と意味を等しくしていないと言う事。

 

 

この生は長く続く縁のうちのたった一瞬であると言う事。

 

 

 

そして、お互いの魂の向上を後押しし、地上にありながら天国にいる者ととして存在する意義を学ぶ事だ。

 

 

この関係性の本懐は私と彼との関係に留まる事ではないのだ。

 

 

 

もっと深く、もっと広く、そして軽やかな光のような愛に戻ることだ。

 

 

自分と相手だけを見て成立する事ではないのだ。

 

 

愛は広く、自由に、解放されたものだ。

 

 

お互いだけを見つめていてもこれは私達の本望ではないのだ。

 

 

 

私は自分自身の記憶に囚われて、彼との関係の維持しか見えていなかったのだ。

 

 

そこに答えはない。

 

 

そこに留まるような小さな愛を体現しにお互い出会ったわけではなく、

 

本来の自分を思い出し、自分の心に従って生きていく毎に、

生は強まり、つまりは自分を信じる力から、実感を持って、

この世界を創造していく意義を知る事。

 

 

 

一人一人がまさに愛に還る時とでも言うべきか。

 

 

それが我々人の本懐である。

 

 

 

大事な事、

 

 

それは

 

 

彼と共に在る事、

 

それは、見つめ合うと言う事では決してないのだ。

 

 

 

彼だけにとどまらず、溢れてくる愛は、それが私が持てるものであろう。

 

 

愛に明確な形は必要ではない。

 

 

 

 

また人生が交差する時がきたならば、それはそれで、その時の自分の心の声が正解である。

 

 

 

 

 

いつだって心が正確な答えを持っていて、

 

それは人生という大きな流れの時間軸でもある。

 

 

 

心は人生の時間軸である。

 

 

 

私の心の引っ掛かりは、

 

今は彼と一緒にいる時ではないと、ただ純粋に問いていたのだ。

 

 

 

それにようやく気がついたという事。

 

 

 

 

そして、これは執着ではない事も同時に分かったのだ。

 

 

人は執着を持っている時は、執着なのかと疑問も沸かないであろう。

 

 

 

喉に引っかかっていた魚の骨がようやく取れたような気持ちですっきりしたのだった。

 

 

いつだって心は正確に訴えてくるものだ。

 

 

年明け前にちょうどよく気づきを得られてよかった。

 

 

 

彼とは仕事はする予定だ。

 

 

これも、心の訴えを聞いた上でそうしようと決めた。

 

 

ようやく決められたのだ。

 

 

 

正直ずっと彼に依頼して良いのかすら悩んでいたのだ。

 

 

 

 

でも、私と彼との関係は私達という小さな関係性だけではとどまらないと分かって、

 

 

なんだか彼に集中していたエネルギーが一気に弾けた感じがしたんだ。

 

 

 

本来歩むべき道、それは心だけが知っているのだった。

 

 

それは間違いなく正確だ。

 

 

心の声を聞いて少しずつ進もう。

 

 

 

写真は初めてヤツと出会って彼の家に行った時に撮ったプージャの写真。

 

来年ようやく同志として彼と会える気がする*