ドアが静かに閉まり、ガチャリ、と鍵のかかる音が聞こえると、部屋は外界と遮断され、夜の沈黙の中に取り残されたように静まり返った。カーテンを引いた室内は薄暗く、たまに、道路わきに植えられた街路樹だろうか、大きな梢を揺らす風の音が微かに聞こえる。
黒木は、何も言わなかった。そして、自分も。優奈の目の前に突然現れたあの思い出の光景は、今また記憶の海の中に柔らかく沈んでいき、もう少年も少女もここにはいない、ここにいるのはただ、優しく自分の背を撫でてくれている黒木と、そして、もうすっかり大人になってしまった、自分だけ……。優奈はそっと黒木の胸に頬を摺り寄せた。こうしていると、黒木の鼓動が、耳を伝わって優奈の胸を震わせるようだった。とても、心地いいリズムだった。けれど。優奈は名残惜しそうに、もう一度だけ、そっと頬を摺り寄せると、ゆっくりと顔を離し、ぽつりと呟いた。
「ごめん、兄ちゃん……。お茶……入れるから、飲んでって」
こんな状況で、お茶を飲んで行ってくれ、というのも我ながらまぬけな言い分だ、と思う。けれど、だからといって、他に何を言ったらいいのか分からなかった。もう、私たちは大人になってしまった。子供の時のように、無邪気に遊べない。その上、恋人同士でもないのだから、楽しい夜を過ごすこともない。大体、黒木が、自分をそういう対象として見たことは一度もないだろう……。優奈がそろそろと黒木の体から腕を離すと、ふと、黒木が腕を伸ばす気配がした。
「……今夜はこのまま帰ろうと思っていたが」
優奈が顔を上げるより先に、黒木の大きな手が優奈の頭を撫でていた。
「仕方ないな、可愛い妹を、このまま残していくわけにもいかない」
昔と変わらない、優しい、声だった。なぜか突然、泣きたい気分にかられて、声が出なかった。黒木はそんな優奈に気づいたか気づかないか、頭をぽんぽん、と優しく叩くと言った。
「今夜はなんだか変な夜だったな」
黒木はやんわりと優奈の腕を取り、部屋に連れて入った。明かりをつけなくても、カーテンの隙間から漏れる外明かりのせいで、部屋はうっすらと見渡せた。黒木は明かりをつけなかった。きっと、気づいているに違いない。私が、泣いていることを。でも、きっと、なぜ泣いているのかは、気づいていないに違いない……。頭を撫でる黒木の手が、私にかける声が、とても優しいから、私は、とても苦しくなったのだ。
「どうして……」
優奈は小さな声で言った。
「どうして、私たち、子供だったのだろう、大人だったら、きっと……」
きっと。あの人の破壊的な行動を、止められていたかもしれない。そして、黒木も私も、平和な家庭で暮らしていたかもしれない。そうしたら、黒木との関係も、少し違っていたかもしれない……。黒木はそれには何も答えず、優奈をベッドサイドに腰かけさせると、遠慮がちに、本当にそっと、私の背中に腕を回した。いい、香りがした。
「……優奈。過去は、過去だ。何も、変えられないんだ」
黒木は、ゆっくりと、静かに言った。その声は私に聞かせているようでもあり……自分に言い聞かせているようでもあった。
「少し寝なさい。ここにいてやるから……」
優奈は黒木にぎゅっと抱きついた。黒木は、とても温かかった。優奈は思わず目を閉じた。木の葉が風に揺れる音が、遠くで、寂しそうに聞こえていた。
目を開けると、黒木はいなかった。カーテンの隙間から、朝陽が細く差し込んでいた。優奈はぼんやりとベッドから身を起こした。昨日の服のまま、横になっていたようだった。ぼさぼさの髪を、指で梳いた。ベッドサイドに、優奈の鞄が置いてあった。玄関はきちんと施錠されている。引越しの時に、2本もらった鍵のうち1本は、黒木に渡してあったから、鍵をかけて行ってくれたのだろう。もっとも、彼がそれを使ってこの部屋に入ったことは一度もないのだが。
優奈はばたり、とベッドに倒れこんだ。今日は土曜日、予定はなかった。色々と思うところはあるが、とにかく、シャワーを浴びよう……。優奈はのろのろと立ち上がり、バスルームに向かった。