黒木は腕を伸ばし、ベッドサイドにある時計を手に取った。昼の十一時だった。時計をサイドテーブルに無造作に置き、大きな枕に体を預けると、横でくすくすと女の笑い声が聞こえた。
「で?結局、その子、抱かなかったんだ。頑張ったじゃないの、黒木ちゃん」
女――周子は、さもおかしそうに、くすくすと笑っていた。黒木は迷惑そうな目を向けた。
「やあねー。そんな目で見ないでよ。昨日、あんな時間に店に来て、そのままうちに来るなんて言うから慌てちゃった」
「それは……悪かった」
黒木は素直に謝った。昨夜、優奈が眠った後、ベッドに彼女を寝かせて家を出たものの、自宅に帰る気にはなれず、周子の経営する店に向かったのだった。店についたのは午前3時頃だったが、最近の不景気で客の入りは鈍く、ホステスの数も少なかった。4時頃には最後の客のタクシーを見送り、周子は店を閉めて黒木とともに自宅のマンションに帰宅したのだった。
「ううん、いい。来てくれて、嬉しかった。久しぶりね、うちに来るの」
周子は黒木に体を摺り寄せた。滑らかな肌が腕に触れた。
「いつ以来かなあ?前に来たのは、暑い時だった」
周子とは、ここ数年、こうしてたまに会って肌を重ねる仲だった。深い恋愛感情は特にない。成り行きでこうなっただけだが、付かず離れずの距離を保って関係を続けられるのも、周子のあっさりとした性格によるのだろう。
「はあ、昨日はすごかったね。すごく……良かった」
周子は嬉しそうに裸の両手足をうーん、と伸ばして、黒木を向いて寝ころんだ。ゆるいウェーブがかかった長い髪が、ベッドに広がる。周子の肌には、夏の間に焼いたのだろうか、水着のあとがうっすらと残っていた。周子は黒木よりも年上らしいが、正確な年齢は分からない。以前、失礼を承知で一度だけ聞いたことがあったが、いつものように気楽な様子でふふっと笑うと、私のほうが少しお姉さんなのよ、と言ってはぐらかされた。まあ、周子がいくつだとしても、自分にとっては大した問題ではないのだが。
「あ、そうそう、あの杉田くん、昨日放心したような顔をして店に来たよ」
杉田……。黒木の脳裏に、仁王立ちでタクシーを見送っていた杉田の顔が浮かんできた。今まですっかり忘れていたことを心の中で詫びつつ、思わず笑ってしまう。
「ははは……。律儀にお前の店に行ったんだな」
「あら、それはそうよ。こっちだって、杉田くんの電話で、あなたも来るって聞いて楽しみにしてたんだもん。そしたら、一人でふらっと入ってきておかしなことばかり、ほら、ナッツを皮ごと食べちゃったりウィスキーの水割りにワインを入れちゃったり?それで、女の子みんなで笑ってたのよ。でもあなたのことは、その、女の子のこと?何も言ってなかったよ。本当に、いい人ねえ」
周子はおかしそうに笑った。杉田……。月曜に会うのが楽しみだ。どんな顔をして来るのやら。黒木はくくっと笑った。
周子には離婚歴がある。それも、一度ではない。三度の結婚をし、いずれも短期間で別れている。何番目の夫かは知らないが、今住んでいるマンションも慰謝料としてもらった、と言っていた。誰にどれだけの額をもらったのか知らないが、少なくとも現在、周子は生活には困っていない。周子は裸でベッドを滑り降りると、分厚いカーテンを開けた。レースのカーテンの向こうには曇った空が広がり、その下に埃っぽい街が広がっている。
「おい、なんて格好してるんだ。何か着ろよ」
「別にいいじゃない。この部屋25階だもん。誰からも見えない。ねえ、それより、おなか減った?ご飯食べる?」
「全く……」
黒木は呆れてため息をついた。周子はいつもこんな調子だ。マイペースというか、無頓着というか。何か言うのも馬鹿らしく思えて、やめた。そういえば、明け方に周子の店で軽い食事をして以来だったし、言われてみれば空腹だった。
「そうだな。食事にするか。外に行くか?」
黒木が体を起こすと、周子がうーんと考えて言った。
「支度するの、面倒くさい。おうちでいい。私、何か作るね。……でも」
「でも?」