美和子はキッチンに立つと、手慣れた様子で電気ケトルの電源を入れ、食器棚の引出しからコーヒーのパッケージとフィルターを取り出した。
「…来るなら電話くらいよこせ」
「いいじゃない。いつ来てもほとんど留守だし。あ、このコーヒー美味しいのよ。パパが南米で買ってきたの。ちょっと香りが独特なんだけど……」
言いながら、美和子は食器棚からコーヒーカップを2客取り出した。そのカップは見覚えのないものだった。思わず眉をひそめる。
「勝手に物を持ち込むなと言ってあるだろう」
「あら、別にいいでしょ。もし結婚したら、これもあなたのものになるんだし」
水色の小花模様が描かれた高価そうなカップを手にして、美和子は微笑んだ。黒木は呆れ顔でため息をつく。
「……またその話か」
黒木はお手上げだ、というように腕を広げ、リビングのソファに腰を沈めた。全く、美和子のこの結婚話にはうんざりする。
美和子の父は、関東を中心に広く商取引を行っている総合商社、岩薗商事の会長である。その取引先には、黒木の勤務する一条物産も含まれていた。のみならず、一条物産社長の一条と岩薗は大学時代の旧友であった。そういった経緯もあり、毎年恒例の岩薗グループ主催のクリスマスパーティには、黒木の会社からも必ず数名ゲストとして出席しているのだが、去年はたまたま、都合のつかない役員に代わって自分が代理出席をしたのだった。
――ようこそ。あら、今年は、いつもの方じゃありませんのね。
あのパーティの夜、美和子にそう声をかけられた。
――黒木……さん?というのね。初めまして、岩薗美和子です。
ざわついた室内で、やけにはっきりと通る綺麗な声だな、と思った覚えがある。美和子は凛と背筋を伸ばして立っていて、隙のない美人、という印象だった。だから、それから数日後、一条の秘書である澤田から、美和子との食事会をセッティングしたと聞いた時は、内心驚きつつも嫌な感情など抱かなかった。容姿端麗な金持ちの令嬢。交際するのに、何の不都合もあるはずがなかった。
ぼんやりとそんなことを思い出しながらふと顔を上げると、自分をじっと見つめている美和子と目が合った。
「なんだ、一体」
美和子はふふっと微笑んだ。だがその微笑みに、何か不穏な光が潜んでいるような気がして、黒木は思わず身構えた。
「ねえ、聡志……」
美和子はコーヒーカップを二つ、カウンターの上に並べて置くと、さらり、と優雅な動きでソファの方へ歩いてきた。彼女が黒木の横に腰を下ろすと、エキゾチックな香水の匂いが鼻腔をくすぐった。数種類のスパイスがブレンドされているような、刺激のある甘い香りだった。これも、彼女の父親の土産なのだろうか……。胸の奥にじわりと感じる不快感の正体を突き止められず、黒木がそんなことをぼんやりと考えていると。
「私はね……」
美和子がすっと腕を伸ばした。反射的に身を反らせる。だがそんなことはお構いなしに、美和子の冷たい指が黒木の首に触れ、それと同時に、彼女の化粧に覆われた端正な顔が近づいてきた。耳元に、温かい息がかかった。静かな、ゆっくりとした声が耳に届く。まるで黒木に、言い聞かせているかのように。
「……あなたに、愛されなければならないの。だって、私にはそれだけの価値があるでしょう?だから、もしも……」
耳元にかかる息は温かいのに、そこから紡ぎだされる囁き声は、冷気を持っているかの如く、黒木の体にひんやりと纏わりついてきた。
「もしも、あなたが私を愛さないのならば……」
美和子の冷たい指が、黒木の頬を包んだ。強制的に、黒木は美和子に向き合わされる格好になった。思えば、こうして間近で彼女に向き合ったのも本当に久しぶりだ。化粧で整えられた白い顔。眉尻一つ、歪んではいなかった。
いつも、何事についても、彼女は完璧を求めた。そして、その完璧さが、黒木にとっては苦痛でしかないということを、彼女は決して理解しようとはしなかった。黒木は無言で彼女を見つめた。美和子はまた、ゆっくりと、言い聞かせるような口調で囁いた。
「……もしも、あなたが私を愛さないのなら、もう他の誰も……愛させないわ」
謎かけのような言葉。美和子の意味するところが掴めなかった。思わず困惑した表情を浮かべた自分に気づいたのか、美和子がふふっと微笑んで、黒木に寄り添った。
「他の、誰も……」
ケトルがしゅんしゅんと湯気を立て始めた。張りつめたような空気の中に、柔らかな蒸気の螺旋が描かれ、その白い蒸気は音もなく二人の上を漂っていくのだった。
Next...