夢を、見た。


そこはどこか、知っているような風景だった。淡い霧のような――まるで、薄布が掛かっている向こうの景色を見ているような、そんな朧げな風景だった。

小さな女の子が、両手で抱える程の大きなボールを持って、楽しそうにはしゃぎながら走り回っていた。女の子がボールを投げようとした、するとその瞬間、何かにつまづいたようにあっという間にバランスを崩し、サラサラの髪が宙に柔らかく広がった。――危ない、転ぶ!そう思って差し出したはずの手はしかし、その女の子に届いたのではなく、逆に誰かの大きな手にしっかりと受け止められていた。自分の目の前に伸ばしたはずの手は、自分が思っていたよりも遥かに小さかった。ああ、そうだ、この女の子は、「私」だったんだ――。小さな少女を見つめていたはずの自分の瞳は、今や全く、その少女の瞳そのものだった。転んで地面についたはずの膝は、ちっとも痛くなく、まるで真っ白な繭の中にいるようにふうわりと、浮かんでいるような感覚だった。両腕に抱えられていた、少女には大きすぎるような白い丸いボールが、ぽんぽん、と音もなく転がっていくのが見えた。

その時ふいに、私の手を握っていた手が……大きな、ゴツゴツした手が、私の両脇の下に伸ばされ、私はあっという間に空中に抱きあげられていた。優しい、ああ、とても、懐かしい声が、宙にこだました。

――ははは。ほら、大丈夫か、優奈。どこも痛くないかい。

うん、と頷くと、良かった、という優しい声がして、大きな掌が、私をさらに空高く上げた。ゆっくりと回り始める体。手も足も、いっぱいに伸ばした。透明な風が、サラサラと、足に、手に、流れてゆく。ああ、私は、この人を知っている。



「お父さん……」

瞳を開けると、ピピピ、と聞きなれたアラームの音が鳴っていた。もう、朝なのだ。優奈は手を伸ばしてアラームを止めると、ゆっくりと体を起こした。カーテンを開けると、東の窓から太陽の光が射していた。

お父さん。私の、大好きな。起きる直前に見る夢は大抵、鮮明だ。覚醒してからも何とも言えない余韻を残す。いい夢も、悪い夢も。そして、今日のこの夢は、仄かに胸に灯をともすような、優しい暖かさに満ちていた。優奈の口元がほころんだ。もう一度、小さく呟いてみる。

「お父さん」

それがとても安心した、幸せな響きに聞こえて、優奈はベッドに腰掛けたまま、暫くそうしてぼんやりしていた。


優奈が一日の仕事を終えオフィスを出る頃には、外はもうすっかり暗くなっていた。今日はもう金曜日、駅前の飲食店街も、仕事帰りの人々で混雑し始めていた。今夜は特に予定もない。家に帰る前にスーパーに寄って行こう。平日はなかなか買い物に行く時間もないので、冷蔵庫はもう空っぽだった。何か、温かいものを作ろう。そして、出来るだけ、簡単なもの。優奈が夜風に身を震わせて、水色のマフラーを襟元に掻き寄せた時。コートのポケットに入れた携帯電話が鳴った。電話を取りだし着信表示を何気なく見ると、黒木だった。鼓動が跳ね上がる。急いで通話ボタンを押した。

「も、もしもしっ……」

黒木と話すのは、あの夜以来だった。どう話していいのか、何を話すべきか、何も思いつかない。優奈は動揺のあまり、そもそも電話を掛けてきているのは黒木なのだから、用があるのは当然黒木であろうこともすっかり頭から抜け、オロオロと話すべき内容を思い巡らすのだった。

「優奈か。今話していて大丈夫か」

この声を聞くと、胸の奥がきしむ。優奈は上ずった声になりませんように、と半ば祈りながら言葉を紡いだ。

「えっと、う、うん。大丈夫。あの……」

「?」

「げ、元気?」

しまった。やっぱり、声が裏返ってしまった。黒木は沈黙している。優奈は穴があったら入りたいってこういうことを言うのかも、と頭の片隅で考えた。なぜいつも、上手く話せないのだろう。ふと、黒木が吹き出す声が聞こえた。

「……おかげさまで。優奈も元気にしていたか」

「う、うん!」

優奈は人の波を避けてガードレールに寄り掛かった。頬が上気しているのが自分でも分かる。先ほどまでの寒さが嘘のようだった。

「えっと、あのね、私はこれから帰るところなの。兄ちゃんはどこ?お仕事?」

「いや、今日はもう家にいる」

「え?そうなの?今日は早いんだね。お休みしたの?」

「いや。さっき帰ってきた。……実はこれからちょっと出掛けるんだが……」

黒木はそこで言い淀んだ。とても、珍しいことだった。何だろう。何か、言いづらいことでもあるのだろうか。出掛けるとは、一体何のことだろうか?

「……兄ちゃん?どうしたの?出掛けるって、どこに?」

黒木は暫し沈黙したのち、やはり言葉を濁した。

「……いや、なんでもない。週末、家を留守にする。土産を買ってきてやろう」

「え?お土産?」

「ああ、来週、どこかで会えるか」

「ええっ?!」

黒木と、また、会える!優奈は思わず立ち上がり大きな声を上げてしまった。周りの人がこちらを見た。慌てて口を押えると、またガードレールに腰を掛けた。

「う、うん!もちろん!私はいつでもいいよ!兄ちゃんに、合わせる!」

「そうだな、じゃあ……ああ、水曜が空いているな。それでいいか」

「うん!分かった!」

「店は、適当に取っておく」

「いいの?ありがとう!」

「では水曜に」

「うん!楽しみにしてるね!」

電話は切れた。優奈は頬を撫でながら大きく息をついた。本当に、嬉しかった。まだ胸がドキドキしていた。何を着て行こう?週末、新しいお洋服を買いに行こう。美容院も、行った方がいいかな?思わず笑顔になってしまう頬をぱちんと叩いた。

「あぁー、もうっ!」

優奈は小さく呟きながら雑踏の中を駅へ向かった。それにしても、黒木は一体どこへ行くのだろう。遠いところなのだろうか?少しの疑問が頭をよぎったが、黒木と会えるというだけで、優奈は頭がいっぱいになってしまい、それほど深く追及はしなかったのだった。


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