このブログを(ぼちぼち)始めたのも、卒論書くための情報蓄積のためで、


卒論の骨子を考えてみた。



「資本自由化と財政破綻 -経済的位相におけるNation-(仮)」



1.はじめに

2.歴史的金融危機の概略

 アジア、南米など

3.財政破綻のメカニズム

 財政破綻の定義

 外国人投資家による急激な資本撤退

4.日本の財政破綻

 国債の国内消化…国内金融機関が売り出すことはあるのか?

5.資本と国民共同体

リカード

6.超国家的資本規制の是非と可能性

 資本自由化とは?

 超国家的規制主体

7.結論・まとめ


世界中(先進国)で財政危機が言われてるけど、「財政破綻」ってそもそも定義が定まってないし、将来世代の負担って具体的にいつ?とか、ずっと借り換えすれば究極返す必要なくね?とか、そういう疑問から出発して、


歴史的な財政破綻・資本収支危機の原因は、「外国人投資家による急激な資本撤退にある」と、還元主義に陥らないように(ここ大事)検討して、


「日本の場合、国債はほとんど国内消化だから、売られる心配はない?」←ここが肝。


という疑問から、日本の国債が売られないのは、国内金融機関の国家への「忠誠心」的なものにかかっている、すごく不安定な状態にある、と指摘、


リカードの比較優位説の前提にあった、「資本家は国民共同体を裏切らない」という前提が、現在のグローバル経済で妥当するのか、


どんどんフラットになっていく経済の位相において、Nationはどんどん相対化されていくのではないか、

国家単位で経済をみるのは妥当なのか、グローバル資本やhollowing outなど例を示して(反対事例として華僑とか)、


資本自由化を再検討して、投資家のNationalism的情念に賭けるのでは不安定だから、適度な規制は必要では?特に短期資本移動規制は?と提言、


で、結論にもっていく、という流れ。


一方で、上部構造(政治・社会的位相)においては最近Nationalismが高揚してるけど、上部/下部構造におけるNation概念の乖離って、どうなの?とか、


金融って、資金があれば、ある意味国家を下部構造から転覆できる兵器だよね、とか

そういうことも指摘したいんやけど・・・





…ってはい、以上完全個人的なメモでした。(笑)


まぁ、たぶん調べていくうちに右往左往するのでしょう。ベクトルとして、これでしばらくは進めよう。





『神/人間/アポリア』を出展するに当たって、もう少し煮詰めたいと思います。




設計図の記事で、たぶん『神/人間/アポリア』というタイトルだけでは解読できない人が多いのではないか、ということを言いました。


それは僕の表象技術(まさにartですね)が足りない、ということも勿論あるのですが、一方で絵画の歴史、この作品の場合には線遠近法をめぐる絵画史上の動きを知らないと、理解できないという側面もあります。


それは、僕の意図としては、英文を読むときに英文法を勉強するように、絵画を“読もう”とするなら、「絵画の文法」を勉強するべきだ、それをせず「わけのわからないものを作っている」と批判するのはどうなの?という問題提起があります。


一応、絵画の記号には『イコノロギア』という辞書があったり、近代以前の絵画はガッチガチのルールに縛られていたりしました。近代以降の絵画も、作家自身の理論というルールに則っていることがほとんどだと思います。


まぁ、図像だけでも楽しめちゃうところが絵画やArt作品の良さだったりすると思いますし、別にその作品が則っている理論、絵画史のコンテクストを理解する必要は必ずしも無いんですけれど。




そして、たぶん多くの現代アートと呼ばれる作品がそうであるように、この作品も、観者によっては「ゼロ記号」化してしまう。そして記号との出会いは、観者に「思考させる暴力」として作用する。


まさに、“わけのわからない”この作品は、観者に対する右ストレートになりうるわけで。(笑)

僕も大学1年生で、まだ絵画の勉強をしていなかった頃、現代アート美術館に行って、わけのわからないゼロ記号(に見える)にフルボッコにされた経験があります。(笑)



そして現代アートの中には、敢えてゼロ記号を作品として提示する作家もいるわけで、ここまで来るとよくわかりません。(笑)

僕たちの生きている現代の消費社会は、シニフィアンだけが独り歩きする世界。

そういうことを、たぶん言いたいんだと思います(その意味ではゼロ記号ではないんですが)。



どうなんですかねー。

僕は、シニフィエの部分をもっと充実させたいなぁと思ったりもするんですが(この作品然り)、まず語るべきテクストが無い。聖書や歴史や神話のような。


よく絵画が「自己表現」として使われることもありますが、僕にとっては表現に先立つ「自己」がよく分からない。

それよりも、主観的なカタルシス(=吐き出すもの)に他者性はあるのか、とかそっちの理由で作りたいと思わないんですが(ですから割とミニマルアートの人たちに共感する部分はあります)。


僕としては、シニフィアンとシニフィエが各々自律的な価値を持つような作品を作りたいと考えています。

シニフィエがハイコンテクストなら、シニフィアンはlow-brow的なものに、そういう意味ではSUPER FLATと同じ発想なのかな…(high-brow、low-browという発想がエリート主義的ですが…)。



とりあえずこんな感じで、しばらくは思考垂れ流し。



micchasoのブログ



今度展覧会があるので、出展する予定の作品のデザイン。


遠近法をめぐる(西洋)絵画史をモデル化したものです。meta-art。




一番手前の額縁が「逆遠近法」。観者は絵に内在する神によって“見られる”立場になるもので、神の視点からの遠近法構図がとられます。


真ん中の額縁が普通にイメージされるであろう遠近法。観者の視点から構築される遠近法です。


しかし遠近法は、二次元平面である絵画を、三次元世界であるかのように”錯覚”させるトリックである、という風に、近代以降(若干幅がありますが、たぶんメルクマールはマネ。)批判され、遠近法を使わずに、三次元である物体・対象、世界を二次元平面である画布の上に翻訳するか、という試みが多くの画家たちによって取り組まれます。


有名なのが、キュビズム。あとルチオ・フォンタナなどでしょうか。


ということで、一番奥の額縁は「物体・対象の三次元性と絵画の二次元平面性との間の翻訳可能性」というアポリアを表象しようとしています。


また、逆遠近法→遠近法→近代以降の遠近法の否定・アポリアという形で、時間軸は左から右へ流れていきます。




本当は倒置遠近法とか並列遠近法とか、あと今回は線遠近法をモデル化したものですが、空気遠近法とかも表象できたらいいのですが、うーん、どうやって表現すればいいのか分からない…。


あと、たぶんこの作品をタイトルの『神/人間/アポリア』だけで解読できる人はあんまりいないんじゃないかな…。それも1つの狙いではあるのですが、遠近法をめぐる絵画史上の動きを知っている人にはちゃんと伝わるように僕が表現できているのか、という問題もあるわけで…。汗





このようにArt作品が、自己言及的に、つまりArt自身について図解illustrateするような作品のシリーズをしばらくは作ってみたいなーと考えてます。