21世紀は人権の時代だといわれる。冷戦の終結とともに東西の対立は重要性を失い,それに代わって経済・情報のグローバル化や地球環境の問題とともに,人権が世界の主要な関心事となっている。人権問題に対する関心の高まりは,国境を越えた広がりを見せる反面,内政干渉を嫌う主権国家の抵抗や,著しい南北格差に反感を抱く途上国の反発を生んでいる。このような抵抗や反発を克服せずに,人権は世界の普遍的価値にはなりえないだろう。
もともと人権の思想はヨーロッパに生まれたといわれている。文書によって「国民」の権利を保障する制度の確立を人権保障のはじまりとすれば,それはジョン王治世のマグナ=カルタに遡ることができる。ジョン王は,フランス国王フィリップ2世との戦いで大陸領地の大半を失い,教皇インノケンンティウス3世と争って破門された。さらに財政難から,これまで諸憲章や慣習法によって封臣に認められてきた「古来の権利と自由」を無視し,重税を課したため,これに不満をもつ貴族らが結束して国王に反抗しマグナ=カルタを認めさせた。それによって貴族らは「古来の権利と自由」を回復するとともに,新たな課税には高位聖職者や大貴族の会議による承認を必要とすることなどを認めさせ,将来にわたる法の支配を保障させた。もちろんマグナ=カルタによる権利の保障が,国王によってつねに遵守されたわけではない。しかし,重大な権利の侵害がおこなわれる度に,マグナ=カルタの原則が再確認され,さらに新たな権利や自由が加えられていった。ただし,マグナ=カルタは「古来の権利と自由」の制度的保障を国王と封臣との間で文書により確認したものではあっても,「人間が生まれながらにしてもつ権利」や「立法権に対抗できる権利」のような近代的人権の性格をもつものではなかった。近代的人権が誕生するためには,ロックやルソーなどによって展開された自然権思想の助けが必要であった。
ジョン・ロックは,イギリスの政治思想家ホッブズの社会契約説を批判的に継承し,政治社会の成立を自然状態から説きおこした。ロックによれば,自然状態において人間はすべて独立・平等で,生命・自由・財産にかんする一定の権利を賦与され,労働や貨幣を通してさらなる財産の形成をするという。そこでは人々の間の紛争を解決する機関も権力も欠けているから,人々は人権を内外の侵略者から守るために,各人が自然状態で保有していた権利の一部を政治社会に譲渡して共通の政治権力を形成することになる。しかしながらこの政治権力はもっぱら生命・自由・財産にかんする権利を擁護するためのものであるから,政府が信託目的に反してこれを侵害する場合には抵抗権が認められ,新たな政府を創ることができるという。このようにロックは,生命・自由・財産という立法権によっても侵されない権利を論じ,政治権力を契約によって成立するものとして位置づけた。
これに対してルソーは,政治社会と権力の成立を同じく社会契約によって説明するものの,その契約は各人が天賦の人権の一部を譲渡するのではなく,生命・自由・財産にかんする権利をふくむすべての人権を来るべき政治社会に委譲すべきものと考える。そうしてはじめて,人々の意思は単一の国家意思となることができるという。もし人々が人権の一部を,とりわけ財産権を個人に残しておくとすれば,自然状態末期の不平等を来るべき政治社会に持ち込むことになり,平等な社会を築くことはできない。社会契約によって成立する国家の意思は人々の全体の意思であり,その権力は人々の権力である。それは分割されえず,また代表されえない。それは全市民の参加により,全市民の利益のために行使されなければならない,とルソーはいうのである。
このような思想を背景として近代的な人権保障の制度がアメリカとフランスで生まれた。七年戦争後イギリスは財政危機に対処するため植民地支配を強化した。印紙法による大規模な課税政策が打ち出されると,植民地人は「代表なくして課税なし」の主張のもとに強く反発し,さらに東インド会社にアメリカにおける茶貿易独占権が与えられると,東インド会社の船荷を投棄するボストン・ティー・パーティー事件をひき起こした。これに対してイギリス本国が懲罰的行動に出たため,1774年,植民地側はフィラデルフィアで大陸会議を開き,抵抗する姿勢を強めた。翌75年にレキシントンとコンコードで武力衝突が起こると,ワシントンを総司令官に任命し戦闘態勢を整えた。そして植民地13州の代表はロック的な自然権思想に基づいて,1776年7月4日大陸会議においてジェファーソンの起草した「独立宣言」を採択した。この宣言は,人間が神から一定の不可譲の権利を与えられ,その擁護のために被治者の同意を得て政府がつくられたことを明らかにし,立法権によっても侵されない人権とともに,人権を侵す政府に対してはそれを転覆する権利を人民に認める点で,画期的であった。ただし,各州の憲法や,のちのアメリカ合衆国憲法の基本となるこの「独立宣言」の人権保障は,あくまでヨーロッパ系移住者の権利であって,先住民や黒人奴隷はそこから除外されていた。
他方,同時期のヨーロッパではフランス絶対王政が,ルイ14世期以来の膨大な戦費負担などによって財政的危機を迎えていた。ルイ16世は財政の立て直しをはかるため銀行家のネッケルを登用し,免税特権をもつ聖職者や貴族にも課税しようとした。これに反対する貴族は,王権を制限するため1615年以来開かれていなかった全国三部会の開催を要求した。全国三部会は1789年5月に招集されたが,議決方法をめぐって特権身分とブルジョアジーを中心とする第三身分とが対立し,第三身分の議員たちは自分たちこそが国民を代表すると宣言し,国民議会を結成して憲法制定までは解散しないことを誓った。これに貴族の一部などが合流したため国王も認めざるをえず,国民議会は憲法制定議会と改称した。しかし,国王は保守的な貴族と結んで,武力で議会を弾圧しようとした。これに対して手工業者や商工業者は激しく抵抗し,物価上昇に苦しんでいたパリの民衆も圧政の象徴であったパリのバスティーユ監獄を襲撃した。この動きはパリ以外の都市にも波及し,農村では農民が領主の館を襲った。これをおさえるため議会では領主裁判権や教会への10分の1税などの封建的特権の廃止が決議され,ラ=ファイエットらの起草した「人権宣言」が採択された。そこではルソーなどの思想を基本理念として,財産権や自由権を中心とする権利が,圧政にも対抗できる不可侵の権利として認められ,それを保障するのが政府の目的であると明示された。こうして革命とともに登場した人権保障の体制は,国民を主権者とすることで特権と身分制を否定し,国民を法の下に平等とし,国民と政府の新しい関係を生み出したのである。
しかしながら,アメリカとフランスを先駆として登場した人権保障の制度は,自由権中心の制度であり,平等も形式的平等の保障にとどまり,社会的・経済的不平等を積極的に是正しようというものではなかった。参政権についても,制限選挙制度をとり,女性には選挙権が認められなかった。その後のさまざまな政治的・社会的運動はこうした制約を乗りこえ,人権保障を拡大し補強する方向をたどることになる。そして今日,人権は,その欧米中心主義的な性格が疑問視されながらも,あらゆる国内政治や国際政治の中でいっそう重要な位置を占めつつある。
21世紀は人権の時代だといわれる。冷戦の終結とともに東西の対立は重要性を失い,それに代わって経済・情報のグローバル化や地球環境の問題とともに,人権が世界の主要な関心事となっている。人権問題に対する関心の高まりは,国境を越えた広がりを見せる反面,内政干渉を嫌う主権国家の抵抗や,著しい南北格差に反感を抱く途上国の反発を生んでいる。このような抵抗や反発を克服せずに,人権は世界の普遍的価値にはなりえないだろう。