―序に代えて―

 十年余り前、初めて吉林国際語言文化学院(現 東北師範大学人文学院)の日本語クラスに行った日のこと。教室に一歩足を踏み入れるや、最前列に居並ぶうら若い女子学生たちから、開口一番、「先生、いらっしゃいませ」と言われた。 「い、いらっしゃいませだってぇ? 何だ、何だ、ここは。教室だと思って入ったのに、どこのお店だ?」……一瞬、自分が一体どこにいるのか分からなくなって、どぎまぎした。 後で分かったことだが、その学生たちが使っていた教科書『新編日語』には、お店の人とお客さんの対話という設定で、会話形式の本文が載っており、お店の人の台詞として、「いらっしゃいませ」―そして、その隣の見開きページには、“欢迎光临”だったか“欢迎,欢迎”だったかの訳文が載っていた。 日本人ならば、こういう場合、「いらっしゃいませ」とは絶対に言わない。「いらっしゃいませ」は、教科書本文の会話にあるように、お店の人がお客さんに対して使う言葉だからだ。日本人の言語表現は、このように、時と場合とか、どんな人が、どんな人に使う言葉か、ということに対して、たいへんにうるさく神経を使うという特徴がある。それを、機械的に、「欢迎」すなわち「いらっしゃいませ」だと、時も場合も相手も考えずに使うと、この学生たちのような失敗をしてしまうことになる。 しかし、こうした間違い、不自然な日本語表現は、何も私の担当したクラスの学生だけのものではなかった。『新編 初級日語』の「前言」にあるように、『新編日語』は、中国の日本語教育ならびに日本語学習に、相当な影響を与えてしまったらしい。 本書で取り上げる『新編 初級日語』は、東京外国語大学付属日本語学校の『初級日本語』に、あの『新編日語』とおなじ編者の手によって、内容を付け加えられ、語彙・文型・文法には解説を加えられ、練習問題に答案を付けられ、本文には訳文まで付けられた、中国の日本語学習者向けに大幅に書き加えられた教科書である。 本書の最大の欠点は、『新編日語』同様、それぞれの言葉・文型を、日本人はどういう場合に使っているのか、それぞれの言葉・文型は、どんな場合に使うためのものなのかが、明示されていず、そのために学習者に不自然な言い方を身につけてさせてしまったり、学習者を混乱に陥れてしまったりする点にある。                                    孺子牛   2007年2月 長春