本日の積読: ミハル・アイヴァス『黄金時代』


 "僅か2千冊の貧しい蔵書"とは由良君美の言葉だが、その僅か2千冊でも崩れてしまえば『文字禍』のナブ・アヘ・エリバ博士のように人を殺せる。一方で僅か一冊や一曲でも十分人は死ぬ、と世間一般には考えられているようでもある。オジー・オズボーンのSuicide Solutionを巡る事件の一幕を見よ。

 しかし、それよりも遥かに、僅か一冊が人生や世界を作り替えることのほうが多いとも言われる。読者人は読者の中で出会う自分でない異物を、主体へ取り込んだり、主体を細切れにするために使ったりする。さて、そうだとすれば積読は読者人の人生や世界にどう作用するのか?

 積読は、おそらく、環境を作り替える本の束である。その人その人の知的関心が形になって、そしてその形になった積読が視覚的に翻って、その人の知的世界を支えるのである。そして積読は消化され、その人や世界を作り変えていく...こういうことではないだろうか?


 今日は「積読一冊で一人殺す」というタイトルをつけた。一人とは読者の主体とか人生とか、世界のことで、殺すとはそれほど大袈裟な表現ではなく、それは蝉の羽化のようなもので、危険を伴う行為である。つまり積読を含む読書にはある危機が伴う。主体を細切れにすることは、「使う」行為でなければ、分裂という危機を伴う。分裂の中で、ちょうど良い塩梅で引き返しながら主体を作り替えることが求められるのである。


 さて、今回紹介するのはミハル・アイヴァス『黄金時代』である。この本が手元にあったのでブログの名前にした。読んでない本のタイトルをつけるのもどうかと思うが、これはアメリカのプロレス団体All Elite Wrestling(AEW)で活躍するユニットであり、ジェイ・ホワイト、ジュース・ロビンソン、そしてザ・ガンズが所属するBullet Club Goldにも掛けている。


閑話休題


 ミハル・アイヴァスはチェコの作家、詩人、哲学者である。彼は大学で美学を学んだ後、様々な職業を転々としたらしい。日本語訳されたものでは本作と『もうひとつの街』がある。訳はどちらもチェコ文学翻訳でお馴染みの阿部賢一先生。

 本書は、河田書房新社のホームページで以下のように紹介されている。


虚構の島をめぐる蠱惑の旅行記、
始まりも終わりもない増殖する〈本〉、
連鎖する世界を解き放つ記憶の幻影──
物語の極限を比類なき想像力と文学的技法で描く、現代チェコ文学が生んだ異形の大作!


 紹介文だけをみるとボルヘスの影響が色濃いように思うが、アイヴァスの過去作『もうひとつの街』のようにマイリンクやカフカの系統も継いでいるのだろう。後者はメタ・フィクション×幻想という組み合わせが特徴的で、最近のアンナ・ツィマ『シブヤで目覚めて』にも受け継がれているように思う。


 と、ここまで書いてきて読んでない本の内容について書くのは骨が折れることに気がついた。それにそんなことは無理な話なわけで。それではこれから何を書いて行くのか?それはある本が積読のなかでいかなる位置を占めるか、ということだ。ちょっとした地図読みをするのである。


 それではこの『黄金時代』は私の積読の世界のどこを構成するのか。本書が置かれているのはボフミル・フラバルらのチェコ文学たち、ヤン・パトチカやチェコ・キュビスムの建築、そしてブルーノ・シュルツらが並ぶ塔である。そしてなぜか本書は松田修『尼人』に挟まれている。

 なるほど。『黄金時代』は私の積読のなかで、東欧の塔に属するとともに、文学という一つの制度の中の作品としてではなく、言語-哲学-美術-生活...というように外部へ繋がっていくようなものとしてあるのだろう。雑な地図読みだが、まあ初回はこんなものだ。


 ところで私はASDと呼ばれる特性を持っている。ASDとは自閉症やアスペルガー症候群などが近年統合されてできた語であり、コミュニケーションが苦手であることや物事に強いこだわりがあるとされる一種の発達障害のことを指すそうだ。人との関わりについて、ASDには様々なタイプがあるらしいが私は他人に興味がないタイプではない。しかし、コミュニケーションがどうにもできないので、私は他人のコミュニケーションを真似ることしかできなかった。

 そのため、私の対人関係は常に傾向と対策の場でしかなかった。そしてその対人関係という語は、人生という語に取って代わった。つまり私の人生が傾向と対策の場にすり替わってしまったのである。


 私は読書を趣味だと言うことに抵抗がある。本を読むことは上のような場に支配された生の柔軟さや自由さを取り戻すことであったから。そして、積読はその世界を支える、ある余白、余裕として私を支えている。そういった意味で、私の積読たちは、傾向と対策の場として在った、一人の子どもを殺したのである。