いろいろあり、考えることができなくなっていました。
なのでブログがこんなに遅くなってしまいました。

すみません。

コメントを頂いていたのに返事ができず、すみませんでした。

ありがとうございました。





まず幸せや笑顔になると楽しくなってくるというのは、メンタルがニュートラル以上の人?が感じられるのだと思う。

メンタルがニュートラル以下の人は無理して感じようとしなくていいと思う。
脳が疲れているか混乱しているのだと思うから。

心は曖昧だし?治療薬がないらしい。
心療内科などがだしている薬は脳などに効果があるらしい。
だからうつなどは心の病というよりむしろ脳の病じゃないかと思う。

だから変に考えず、心が辛いと思ったら脳が辛いのだ、体が辛いのだと思って休むか治療してほしいと思った。



感性ってなんだろう?
と思って調べてみると『印象を受け入れる能力』と出てきた。
なるほど、印象を受け入れる。
印象ってのは見たまんまだろうか?
受け入れる…とは。
認めることなんだろうか?
少しまだわからないけれども、見たままをみとめること?なんだろうか?

『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』という本がある。
コミュニケーションが苦手な人のための理論?と技術?が書いてあるらしい。

その中に『先入観、誤解はウェルカム』のようなことが書いてあった。
たしか最初は相手のことがわからないのだから先入観、誤解から質問してみて、相手に訂正してもらうことで会話になっていくというようなことが書いてあったと思う…?

誰でも相手のことは最初はわからない。興味を持っても会話以外で得られる情報は見た目だと思う。

先に職業がわかっても、わかるのはその人の周りにある情報で内面はわからない。

話をしたって内面がわからない人もいるかもしれない。

だから、見た目などの先入観、誤解から質問してみると案外会話になるそうだ。


そこで見た目なのどの先入観や誤解から質問を…となったときに、興味とやらが持てる人ならいいけれどそこまで余裕がない人や思いつかない人はどうしたらいいのかと思って考えてみた。

なので題名が、感性について?になった。

『印象を受け入れる能力』

それって見た目などからの先入観や誤解にならないだろうか?と思った。

興味を持つこと。

興味は自分の脳が考えた疑問、感想のようなものだと思うから。
それだけじゃないとは思うけど。

自分の興味、関心がわからない人にとっては見た目の先入観や誤解からの疑問、感想を考えつくことを積み重ねれば脳の癖になってわかってくるのではないかと思う。

脳の癖になればそれが自分の考え方の一つになると思うから。

まず、見た目の先入観、誤解をするにはどうしたらいいのだろう?

相手を見た時点で真っ白になってしまう人もいるのに…

考えてみたらいきなり人で練習しようとするから失敗してしまうのではないだろうか?

真っ白になるのなら人じゃないもので練習してみるのもいいかもしれないと思った。

たとえば写真。
ブログなどの写真をみてみて、自分がどう考えるか?
何か変わっているところはないか?
面白いところはないか?
この人と話をするなら何か聞きたいことはないか?
とかか?

自分で考えるには自分に問いかけるのがいいと思う。

疑問、質問、感想を自分で考えている間は自分に意識が向いているときだと思う。

自分に興味がないなんて思わない人もいるかもしれないけれど。

自分に意識が向いているということは良し悪しあるらしいけど、自分探しとやらには最適じゃないかと思う。

自分が今日調子がいい!と鏡を見たときに思う。(感想)
問題が起きたときにどう対処すべきだろうか?と自分に問う。(質問)
自分は何に興味があるかな?と考える。(疑問)

感想を持つと自分の心(脳)の思考パターンがわかる気がする。
質問(疑問もかな?)を持つと心(脳)に考えさせることができると思う。

自分の考え方のパターンや考えることができるようになると、意識してコミュニケーションなどができるようになると思う。

問題解決でも、わけもわからず逃げたくなったり煩わしく思ったり…まぁいろいろ嫌な気分にならならず、考えることができるようになると向かっていけるようになると思う。

人間は注意をむけたものしか意識できないとも何かの本で書いてあった。

たとえば赤色を注意してみてみようと決めたら?自然と赤色のものが目に入ってくるみたいな感じらしい。

人間は意識したものに興味がわくのかもしれない。
逆に興味がわかないという人は意識することができないのかもしれない。

意識とは『自分が現在何をやっているか、今はどんな状況なのかなどが自分でわかる、心の働き』らしい。
後半ちょっとよくわからないけど。
今はどんな状況なのか状況は、周りの様子だけではなくて自分の心境も入っているのではないかと思う。
今は心(脳)がどんな様子なのか自分でわかる、心(脳)の働きという感じか?
わからないけど。

他人をみたとき、その人をみて何も考え(疑問、質問、感想)が思い浮かばないときはその人に興味がわいていないときだと思う。
心は脳が考えていることだと思うから。
脳が考えていることが体を反応させていることだと思っているから。心は。

他人に対してかわいい(感想)とか思えばそれは自分の考えだと思う。
他人に対してどうしてかわいくみえるんだろう?(疑問)を持つのも自分の考えだと思う。
他人に対してオシャレ好きなんですか?(質問)すれば興味を持っていることだと思う。

簡単に例えただけだけど。

心(体)が反応しないから興味がないと思われるかもしれないが。
私はそこら辺はまだ考えがまとまらないので書きません。

意識して考えることができないという状況なのかもしれない。
無意識でできる人もいるけれど、意識して考えるということをしてこなかった人は無意識でできないらしい。
無意識でできるようになるには練習が必要なようだ。
というか、脳が考えることが癖になるくらい疑問、感想、ついでに質問を持つのを習慣にしないといけないみたいだ。

疑問を持つ。感想を持つ。
のが考えていることだと思うから。
それに質問ができたら興味が持てていると思う。
相手に感想を持つことも興味が持てていることかもしれない。

というかよくよく考えてみると相手にいい感想を持てたら興味があるのかもしれない。
心(脳)が動かないという人というのは相手にいい感想を持ってないのかもしれないと思った。
プラスの感情が持てたら、それはワクワクしていることだったり脳内麻薬とやらが分泌されている状態だったりすると思う。

相手に興味がわかないのは、自分の脳が相手のことを考えてないから。
自分に意識がいっているから。
じゃないかなと思う。

もしくは自分にさえ意識がいかないから。
常に考えていることがマイナスなことだから。
とかもあるかもしれない。

まだマイナスやプラスになるのはなぜなのか、プラスになるにはどうしたらいいかはわからない。
考えがまとまらない。
だからまた書きませんが…

とりあえずここまでです。
考えがきちんとまとまってないのでまた書き直しするかもしれないし、新しく書くかもしれない。
長々と読んでいただきありがとうございました。

次は何について考えるかはまだ決めてないけれどまだいろいろあるので書くのは遅くなります。

途中に思いついたことを継ぎ足し書いているので話が前後しているところもあるかもしれないし読みにくかったらすみません。

ネタが尽きかけているのでよろしければアドバイスいただけると幸いです。

では失礼します。










自分が自分を殺したいと思うのは。

悲しいことだと思う。

他人の自分からみたらだけど。


でも、自殺したい人は
死にたい人
というよりは
生きていたくない人だと思う。

死ぬということのために
死にたいと思っているわけではなくて。


生きていることが
辛くて苦しいと感じているから。

死ぬことは
生きる辛さから
『解放』されるための

『手段』として考えているだけみたいだ。


生きづらくて、苦しくて、何もできなくて。

よくしたいと思っても。

何が悪いのかわからないから、どうしたらいいかわからなくて。

いいと思うことは手当たり次第ためしてみたり。

でもうまく行かなくて。

何をやってもうまくいかない
自分を非難しつづけて。

苦しすぎて。

だったり。


誰にも見てもらえなくて。

必要とされなくて。

生きている意味がわからなくて。

虚しくて。

だったり。


死にたいと思うようになるまで
過程はいろいろあるんだろうけど。


死にたいわけではなくて。

生きていたくないみたいだ。

生きていることに
希望が持てるなら。

他にいい方法があるなら

死を選ぶことは考えないようだし。


プラスの感情を持っているのなら
それを捨てられるほどには
死ぬことに対しては魅力はないようだし。
(自殺をエンターテイメントとか思っている人とかは別)

本当は死にたくないのだから。

実際に死にたいと思ってから
死ぬまでには
タイムラグがあるように思う。

まず、人は死ぬように
作られてないから。

死ぬために自分の感情を
プログラミングしなおす必要があるんじゃないかと思う。

死のうとすると
だいたい
不安や恐怖などを感じたり。

罪悪感を感じたりしてる。

たぶん、回避させる感情がでてるからではないかな?

進化の過程で刷り込まれているから。

死に直面したときに
戦うか、逃げるか、を
体にさせるために
脳が指令(ホルモン)を出すらしいから。


関係ないけど
殺されるとき
恐怖を感じて動けない人は
スケープゴートの性質があるのか。

いけにえにされた歴史が
あるのかもな。

遺伝子と前世の関係で
考えてることがまとまったら
書きたいな。


生きるために生まれてきたのだし。

死ぬことを
回避させるプログラムが
遺伝子には組み込まれてると思う。

感情は進化の過程に作られたらしいしから。

生きて残れた遺伝子から今の自分が作られているわけだから。


この死を回避プログラムを
解除するには。

マインドコントロールが
自分に対して行われているのではないかと思う。


マインドコントロールするときの条件として
マインドコントロールしたい情報以外は
与えてはいけない。

なら、自殺志願者は
だいたい他人の言葉が頭に入らないから
自分の言葉だけが毎日繰り返される。

マインドコントロールの
一つ目はクリアする。

他人の言葉が届いたなら
マインドコントロールは成立しないから。
死に対する感情はなくならないだろうし。
死ねないはずだと思う。

他人の言葉が入る余裕が
心にできたということだろうし。

マインドコントロールのつぎの段階で
悪魔化というのがある。

普通は他人がマインドコントロールしたい人に対して
特定のものに恐怖感を感じるようにしむける。

だけど自分に対して
死にたいと
マインドコントロールしているのだから

自分が自分に恐怖感を感じるようにしむける対象は
『生きている』ことにな対してなのではないかな。

辛いくて苦しいと感じている毎日を。
さらに自分で苦しめる。

自分に対して言葉をかけるのは。

慰めでもなく。

励ましでもなく。

自分に対して叱責する。

自分を責めて、責めて、責めて。

自分なのに。

自分自身なのに
味方になってあげない。

自分を責めることは
何もできないと思っている自分が
唯一できる、他人へ償いみたいだ。

思考している自分が
感情を感じている自分に対して
責め続ける。


そんなこともできないのか。(他人にも責められてるのに)

馬鹿じゃないか。

自分はなんて無能なんだ。

自分には価値なんてない。

なんのために生きてるんだ。

生きてる価値もない。

思考の自分が自分を責める。


役にたってないじゃないか。

必要とされてないよ。


自分を罰して償ってるつもりでも。
罰しているんだから
許してもらいたいと思っているのだろうけど。

感情の自分は苦しんでいる。

(生きてるのは)辛いよ。

(生きてるのは)苦しいよ。

もう嫌だ。(逃げたい)


死にたい。

死にたい。

死にたい。



『生きている』ことに不安を感じて。
『生きている』ことに罪悪感を感じて。

いつもいつも
何にたいしても
苦しみや怒りや悲しみなどを感じたまま
生きている。

すべてのことに対しての反応として
マイナスの感情が
体を巡る。

マイナスなことに意識が向いているから。

プラスが目に入らないし
プラスなことでもマイナスに見えてしまうから。



繰り返すことで

ある日ふと言葉が
ふに落ちたような感じで。

死に対して
怖さがなくなるみたいだ。

ただ自然に
当たり前みたいに
死ぬという行動を起こす。

目が覚めたら起きるみたいな。


マインドコントロールしてる途中で
焦ってる人がいて
死ぬことをしなくてはならないと思っているような。

焦ってるというのは
パニックにおちいっているみたいで。

冷静な判断ができてない。

そういう人は
死ぬ場所を探しにいったりする。

マインドコントロールは
完了してないから。

死ぬのは怖い。

けど、なぜか死ななくてはならないと
焦っているから。

死ねないことに悩む人は
死に場所を探しにいったりする。

自殺のスポットは
幽霊に呼ばれるなんていうけれど違う気がする。

心理学でいう場の力?だったか責任分散だっけ?が働いているような気がする。

自殺の名所という認識によって
ここはたくさんの人たちが死んでいる場所だと知っている。

自殺をしているのは自分だけではないということも理解している。

他人が死んでいるのに
自分だけ死ぬことに非難されるわけがないと。

死に対して
身近な人が悲しむことなどに対して
罪悪感が薄れていく。

『他の人もやっているんだから』

自分が自分を殺すことに対する罪悪感も薄れる。

『みんな、やっているんだから』
って安心感がでてくるみたいだ。

自殺スポットで食い止めようとするボランティアがいる。

その人たちの言葉が届くのは。
ほんとは死にたくないから。

幽霊がひっぱるなら
きっと自殺志願者はトランス状態だから。
声なんて届かないはず。



でも、生きれない人がいるなかで。

死ぬことを選べることは贅沢なのかもしれない。

自殺志願者としては
命をあげれるものなら
あげたい人もいると思うけれど。

でも、生まれてきてもいつかは必ず死ぬのだから。

死ぬまでは
今、生きているという事実があるというのに。

まだ一生懸命、生きているのに
かわいそうなんて
言っていいのだろうか?

自殺したい人と
比べていいのだろうか?

自殺したいと思う過程があるのに。
人を責めていいのだろうか?

いずれ必ずくる
死という別れに悲観して

生きれなくて辛かったと
思ったまま死なせていいのだろうか?

少しでも
生きていることに
楽しんでもらうためには
どうしたらいいのだろうか?

泣けてくるな…

自分が病人の立場なら。

99%命が短いことに悲観するだろうから。

一緒になって悲観されてしまったら。

だれが
人より早く死んでしまうことではなく
他の人といっしょで
ちゃんと生きている
と、わからせてくれるんだろう?

なぜ生きている間を
少しでも楽しめることはできないんだろう?

生まれてきて
生きている楽しさを
知らずに寿命をまっとうして終える人もいるのに。

少しでも
生きている時間を
楽しかったと
終わらせてあげることは
できないのだろうか?

わからない。

でも、生まれてこなかったら
死んだという事実はないのだから。
悲しむ人はいない。

生きていたことの喜びより
人より早く死ぬことに悲しんでばかりいることは
生まれてきたことを
責めていることになるのかもしれない。

生まれてこなかったら
お母さんを悲しませることはなかったのだから。
と。


生きている間の特権として

泣いたり、怒ったりできるんだから。

笑う感情だって持ってる。
苦しいだけじゃなくて
楽しいって思うことだってできるはずなんだよな。

ホスピタルクラウンは偉大だなと思う。


自分はまだ愚者にはなりきれないから。

死ぬことが
たいそれたことに感じてしまう。

生きれないことに
かわいそうと思ってしまうのだろうけど。

かわいそうと思えるのは
自分にまだ命があると思っているから。

自分の命が短いなら
他人の心配している余裕なんて
自分には出てこないだろうから。


楽しい1年を過ごせるたなら。

思い出をいっぱい作れたなら。

産んでくれてありがとう。

楽しいかったよ。

生きれてよかった。

出会えてよかった。

死ぬ最後まで
幸せに満ちているのかもしれない。


生きる時間を延ばせれたら楽しいことがいっぱいあるかもしれない。

ないかもしれないけど
可能性は広がる。

でも、幸せな時間を作ろうと
少しでも楽しめたら。

旅立ちに未練は少なくなるのかもしれない。


わからないけど。

でも、悲しいものは悲しいんだから
しょうがない。

悲しいって気持ちを押し殺しちゃいけないんだ。

悲しいを思いっきり悲しんで。

悲しいが楽になるまで一人でか
死ぬ人の近く以外で
思いっきり泣けばいいんだ。

心に蓋をしたら発酵してくさくなる。

永遠に悲しい気持ちから抜け出せない。

悲しい気持ちがなくなったわけでないから。

悲しい気持ちのまま
納得できてないから。

いつまで悲しんでいても
ないものはない。

いつまでも悲しんでいたら
成仏できない。

成仏させないことは
生まれ変われる時間を
次の生きる時間を
奪ってるんだ。

悲しい気持ちを早く発散させて。

現実を今をどうするか。

どう生きるか。

自分だけ生きているからと。

罪悪感で生きる必要はない。

死んでしまった人は
もう誰が生きていようが
苦しんでいようが
関係ないと思ってるんだから。

死の擬似体験は
寝ていて夢を見ていないときらしい。

何もわからないし。
何も考えてない。

無だよ。

微妙…
まだまとまりが半端だから手直ししなきゃかも。
神様だって幸せにならないと。と思うのだけど。

神様の定義がわかってないのだけど。

どういうもの?に対して、神様といっていいのかわからないし。

大多数が見えてないものだし。

そもそも、スピリチュアルな人たちが言う神様は、どうして神様とわかるのだろうか?

神様がいるかいないか。
ということを言いたいわけではなくて。

神様と話しているという人は、その人が神様だと思って、神様だと言ってるからで。

神様と証明しようがない。

天使かもしれないし。
悪魔かもしれないし。

違うものかもしれない。

神様と名乗ってるわけでもないだろうし。
神様と名乗っていたとしても。

それが本当だと、どうしてわかるのだろう?

『人間の方が』とある存在か、ものに対して、神様と名前をつけているだけな気がするのだけど。

違う名前あるかもしれないし。

そもそも、神様という名前にはすっごいイメージがつきまとってる気がするし。

そのイメージに反したと感じた人は、『悪魔だ~』とか『悪霊だ~』とか、『信じてたのに』とか。


人間には名前があるけど、名前からイメージが先に来ているわけではない。

でも、スピリチュアルな存在とかはイメージによって、名前が決められている気がする。


大きな愛で人間を包んでくれる存在で。(自分だけ)

願いを叶えてくれる存在で。(自分だけ)

救ってくれる存在で。(自分だけ)

エトセトラ…

(自分だけ)と書いたのは、他人が叶えてもらっても、自分が叶えてもらってなければダメみたいだし。

でも、それは自己犠牲の愛を持っているのが、神様ということに思える。


自分が作った世界を壊す人間を。
自分が作った生き物を殺す人間を。
小銭をささげたからと、お願いばかりする人間を。

大きな愛で包むのが、当たり前といわれる神様という存在は。

幸せなのだろうか?

祈れという人もいる。
神様を尊敬しろという人もいる。

大きな愛があるなら。
神様は尊敬されることは、なんとも思ってないはず。

尊敬されてようが、馬鹿にされようが。
ただ、愛で包む。

平等なんだよね?

自分が特別だと、神様が思っているなら、尊敬されることを喜ぶはずだけど。

誰かと自分を比べて、勝っていると感じるから。
優越感を感じて、自尊心が満たされたと感じる。


でも、自尊心て、自分を尊敬する気持ち。
つまり、自分に自信を持っているということだから。

他人と比べて、感じた自信(自尊心)はまやかしな気がするけど。

その比べた他人に、もし自分が負けたと感じたり、その人がいなくなったりして比べれなくなったら。

一気に自信はなくなるはずだから。

比べた他人に負けたと信じたくなくて。とか。

過去にすがって、昔は自分のがすごかったといってる人は。

今をすごくすることに力を注がないで、もう終わった過去での自信で勝負しても。

今を生きている人間にとっては、時間軸がずれてるから。
過去のすごさの説得力は、今すごい人の説得力には勝てない。

他人と比べて得た自信は、他人に勝てなければ意味がないわけで。

他人を下に見ているという証拠でもあるのではないのか?

どんなに偉い人でも、尊敬をされてないと嫌な人は、他人を下に見ているということで。

他人を尊敬している人は、尊敬している人物を自分より上にみて、自分自身を下にみて。

他人が他人自身より上に見ている偉い人と一緒にいられるということを。

自分は(偉い人)に選ばれた存在だ。と、偉い人と一緒にいない、その偉い人を同じように尊敬している他人に対して優越感を感じたり。

まやかしの自尊心は刺激されるだろうな。

偉い人といれなくなったら、脆く崩れて。
自分の価値がないと感じたり。

偉い人というのは、例えばの話だけど。

偉くなくても尊敬できる人はいるし。

他人が関わらなくても、自分に甘くて自信がある人ではなくて。

誰かに批判されようが、自分を責めることなく自分を信じられる人は。

尊敬する人と比べて自分を下にみることもないし、尊敬する人といることを自信にすることもないだろうけど。


世間知らずだから勝手いってるけど。

というか、考えている疑問からズレてるや。

神様がどんな存在でも、いても、いなくても、なんとも思わないけど。

神様が試練を与えているというのは矛盾している気がする。

神様が人間に越えられる試練というギフトを与えているのに、越えられなくて自殺している人がいる時点でよくわからない。

神様は人間を苦しめて、自殺に追いやったことになる。

そもそも神様が試練を与えることが、意味わからない。

与えた試練に対してのお願いことをたくさん聞かなきゃいけなくなるのに。

願いが叶えられなければ、悪態つかれるか、悪魔のせいだと言われる。

試練を与えている神様は、悪魔になってしまうし。

試練に対して自分は不幸だと思う人がいるのに。

神様は人間が苦しむ姿を見たいと思うのだろうか?

大きな愛で、自分が与えた試練に苦しむ人間の姿を見て、願いごとをいわれ、悪態をつかれ、悪霊よばわりされて…

なかなか神様って大変だなぁ。

それに生きている人間。
というか、自分の人生を、実は神様が操っているからならわかるかも。

運命というやつ。

試練だったり、見えない力だったり?

問題をだされ答えを探すというレールにのっかってるようなのに。

自分の人生を生きている自分じゃなくて、見えない神様が自分に影響を与えているなら。

この世界は、神様のドールハウスみたいなものになってしまうような。

修業のためにこの世にいるという人は、間違ってることになってしまうよ。

問題を与えることで、クリアできない人は神様にお願いしたり、見えないものの力に頼る人がいる。
ということは、神様とかに依存させられていることになる。

問題を自分で解決できない人が依存してるだけとかじゃなくて。

そもそも、越え方が自分の持っている思考では思い付かない試練だから、越え方がわからなくて、八方塞がりで、何でもいいから救いを求めてすがるわけだと思うので。

必要な試練だから来る。とか。
必然なんだ。
とかもよくわからない。

なぜ、必然であることにこだわるのか。

必然じゃない試練は意味がないのか。

必然でなければ、自分が不幸に感じてしまうからか?

必要だろうが、必要なかろうが、問題があるのは変わらないのに?

変な慰め方だと思う。

それに、スピリチュアルな人が、神様と話せることを商売にすることを、等価交換?だったか…

そういう言い訳にする意味がわからない。

神様に力を与えたということは、神様がひいきしたということで。

せんみん思想だし。
神様は平等じゃなくなる。

神様がせんみんだけを裕福にすることになってしまう。

神様は無償で力を与えてるのに、苦しんでいる人からお金をもらっている。

苦しみが晴れて、幸せになっているならいいのだけど。

依存したり、お金を無駄にしたという人もいる。

人間なのだから。
神様じゃないのだから。

生活する必要があるからお金を相談者からもらってるのが現実なのではないの?

だから、神様のしている無償の愛は自己犠牲の愛に感じてしまう。

自分が人間だから。

というか、そもそも、見えないものが見える人は。
自分が持っている能力だと思うけど。

見えないものが見えることは、特別すごいとは思わない。

足が早かったり。
計算が早かったり。
そういう能力と同じくらいすごいと思う。

能力に、ただ向き不向きがあるだけだと思うから。


思いやりがあったり。
気遣いができたり。
そういう心遣いができる人のが、尊敬する。

自分ができないから。
自分ができないのは、その心遣いがわかってないから。

わからないことをわかるには、知っている人から学ぶしかないと思うから。

守破離(漢字がわからない)とかでも。

なんかわけわからなくなってきた。

何故、自分の人生の主導権を他人や神様にたくすのか?

失敗も成功も人のせいにして、自分で引き込んだこととは考えないのか?

原因があって、過程があるから。
終わったことを結果といってるだけで。

そこに学びがなければ、修業の意味ないし。

神様に依存や忠誠を誓わなければ、幸せになれないのも不思議だし。

自分を幸せにできるのは、自分。
自分しか、自分が幸せであると認めない。
自分が幸せであると知れない。

自分の人生を自分で責任を持たないと、他人に人生をあずけてしまうの?

でも、『おかげさま』は大切。

自分がすごいだけで成功したのではなくて。

力になる人がいて、自分の働きとかに対価としてお金をくれる人がいて。

自分といることに、喜びを感じてくれる人がいて。

そういうのって、自分がすごいから起こる自然現象(当然と思うということ)とか、自分がそうなるように操作したんでなくて。

過程はどうであれ、他人の意思で、他人が決めて行動を起こしてくれただけ。

脳が行動するときに指令をだしてるんだし。

その人の意思でわざわざ、行動してくれたことに。
おかげさまと、感謝するのは普通だと思う。

自分は現金だから、いいことにしか『おかげさま』と思えないけど。

というか、ダラダラ書いたけど、何を書いたかさっぱりだ…

読み返す気にもなれない…

試練は必然に混乱して、考えを整理するために書いたけど。

わからないままだし。

夜は早く寝ないとな。


そういえばコメントがピンクちらしだったな。

ピンクちらしみたからといって妄想は、しないからあんまりなんとも思わなかったや。

自分がする妄想は、殺人したと過程して、刺したときの感触だったり、心情だったり。

あと、被害者体験を妄想したりとかするかも。


興味あるからなぁ。

人間は本当に無価値な人はいるのか知りたい。

あと、運は何かしりたい。

運のいい人と悪い人たちはどんな人間か知りたい。

運は神様のギフトなのか。
人間が持つ能力なのか知りたい。


でも、コメントが決まった題名だったから。

私に対してある意味、コメントをくれてる。

なんか、素直といったら悪いかもしれませんが。

私の考えに反応してくれて、うれしかったです。

ありがとうございます。


世間知らずなので、気に障ることも言ってしまってるかもしれません。

本人は無自覚なので。
教えていただけたら幸いです。

精神年齢が低いだと思います。
精進したいと思います。

ありがとうございます。


なんかよくわからなくなってきた。

夜はきちんと寝ないとな。
きちんと休まないと、気持ちはぐらぐら。