「真由、今朝、顔色が、いいな。」
週末、敬三は、遅めの朝食を採っていた。
「そう? 先日も言ったと思うけど、今日、お父さんが、外出中に友達が、
家に来ます。」
「誰だっけ?」
「以前、親切にしてくれた人よ。 それよりセミナー、終わってからの
パーティーで、飲みすぎないようにね・・」
「分かってる・・」
妻、美紀が、亡くなって今年で、16年になるが、今や真由の言葉は、美紀の
生き写しだ。 面影もそして料理の味付けも・・敬三は、何年経っても美紀が、
そこにいるように感じていた。
連日の雨空に遂に気象庁が、梅雨入り宣言をしたこの日、豊は、真由の会社
の1階に車を停めた。
休日のショールームは、明かりを落としひっそりとしている。
エレベーターで、5階に降りると、眼前にドアが、あり「廣田」の表札が、
見えた。
「ようこそ・・」
1ヶ月ぶりに逢う真由は、その長い髪をひとつに束ね、初めて見るスカート姿
で、笑みを浮かべていた。 豊は、緊張していた。
「こんにちは。 お邪魔します。」
久しぶりに見た豊は、髭を蓄え、精悍さを増して、男らしく真由の目に映った。
通された広いリビングルームは、白いロココ調のエレガントな外観と異なり
コンクリート打ちっぱなしの壁に、2人暮らしには、大きい黒いダイニング
テーブルと皮のソファーが、置かれたモダンなインテリアだった。
真由は、豊が、持参したカサブランカの花を花瓶に入れ、テーブルのセンター
レースの上に飾った。 リビングには、カサブランカの甘い芳香が、漂った。
「あと、これ・・」
「もみじ饅頭!」
「いつ、渡せるのか、分からなかったから、これにした。」
「ありがとう。 真空パックなんて、あるんですね。 後で、頂きましょう。」
「広島は、どうでしたか? いい写真、撮れましたか?」
「まあね。 お勧めの広島のお好み焼き、初めて食べたよ。」
真由は、豊の写真に興味が、あったが、豊の雰囲気から触れては、いけない
気が、してそれ以上は、あえて詮索しなかった。
真由が、コーヒーを入れている間、豊は、壁面の大きなサイド・ボードに目が、
行った。上には、たくさんの写真立てが、飾られていた。
「命名 繭」と書かれた紙の傍らには、頬が、膨らんだ色白の赤ちゃんの写真。
恥ずかしそうに側の女性のスカートの裾を摘んで立つ少女。
中学の入学式なのか? 両親に挟まれた制服姿、お下げ髪の少女。
どの写真も両親の愛情を一身に注がれて育った少女の笑顔だった。
そして、美しく儚げな女性の写真。
「母です。」
振り向くと真由が、テーブルに挽きたてのコーヒーを置いていた。
「中学入学式から1年後に子宮頸がんで、亡くなるなんて、思いもしなかった。」
「君に何処か、面影が、似てる・・」
でも、中学入学式、以降の写真は、飾られて無かった。
「この命名 繭って?」
「この会社を興した祖父が、初めて誕生した女子の孫、私に繊維の元の蚕
=`繭`という名をつけてくれたんです。 でも、漢字が、難し過ぎるって、父が,
同じ音の字を当てて・・」
「それで、今の真由・・」
豊は、サイド・ボード内に目を転じた。
「見ていい?」
「どうぞ・・でも古いものばかり・・CMが,入っているのもありますけど・・」
整理されたビデオ、DVDには、インデックスが、貼ってある。
「4月物語」 「シティ・オブ・エンジェル」 「マチルダ」 「ユー・ガット・メール」
「私物語」 「アイ・ラブ・エンジェル」 「パリで、かくれんぼ」 「フラデルフィア」
「ジョー・ブラックをよろしく」 「遠い空の向こうに」
「デンジャラスマインド/卒業の日まで」・・
「いい趣味してる・・セレクトが、渋い。宮崎アニメもある。」
豊は、「耳をすませば」と「平成狸合戦ぽんぽこ」を手に取った。
「見ます? `耳をすませば`は、特にお勧め。学校図書の貸し出しカードに
いつも先を越されるひとりの名前・・のところが、気持ち分かってキューンと
するの。」
「へぇ~。じゃ君も初恋は、同じシュテュエイション?」
「さあ?ご想像にお任せします。」
そう答えると真由は、お得意の茶目っ気のある笑顔を見せた。
「あ、これ見たくて、探していた映画!」
豊は、次に「父と暮せば」のDVDを手に取った。
今回、仕事の下調べで、気になっていた作品だったが、DVD化されておらず、
残念に思っていたものだ。深夜、映画放送されていたとは・・
「この映画、井上ひさしの脚本で、舞台化もされたんだよね・・観ていい?」
セットすると、オープニングのモノローグが、流れ真由は、キッチンに向かった。
「観ないの?」
「お昼の用意・・」
映画に真剣な眼差しを向けている豊の姿。 あれほど、逢いたくて胸焦がして
いたのに、こうしていると、とても落ち着けて、普通にしていられるのが、真由
には、不思議だった。
「父と暮せば」・・主人公の美津江(宮沢りえ)は、父、作造(原田芳雄)との
2人暮らし。 美津江は、明るく快活だが、心の奥では、原爆投下を生き残って
しまったことへの罪悪感があり、勤め先の図書館で、原爆資料を集める木下
(浅野忠信)から好意を寄せられているものの親密になれないでいる。
美津江の死者への申し訳なさという、心の闇のくだりは、その紗の掛かった
画面が、暗く語りかけていた。
とても重い内容だ・・ふと豊は、我に返ったようにキッチンへ視線を転じた。
そして、DVDのスイッチを切り、席を立った。
「何か、手伝う?」
「観ないの?」
「うん。 借りていいかな? 家で、ゆっくり観る。」
2人で、観る映画じゃなかった・・
「じゃ~玉ねぎを擂ってくれますか?」
真由は、首をかしげ、ちょっと甘えるような仕草を見せた。
「OK !」
「あ~目に染みる~。擂っても染みるんだぁ~」
「ア・ハハハ・・」 真由は、涙目の豊にタオルを渡しながら笑った。
「分かってて、俺に頼んだ?」
「丁度いいタイミングで、豊さんが、来てくれたから・・」
「こら!」
「ハハハ・・」
豊が、擂った玉ねぎは、ドレッシングに加えられた。
「出来た! テーブルに運んで・・」
魚介のマリネ、チーズ・リゾット、イカ墨のスパゲッティ、ヴェネツィア風サラダ、
スライスしたフランスパンに酢漬け野菜やサラミ、チーズを乗せたオードブル
「これは?」
「イタリアでは、ポピュラーなオードブル、`チケッティ`よ。」
「うぁ~上手そう・・」
「本当は、白ワインが、合うけど、車だから発砲水」
「もんじゃもウーロン茶で、我慢したけど、今日は、炭酸入りミネラル・
ウォーターで、我慢か・・」
「飲ませたら私も同罪だから・・」
「乾杯~」
「上手い! パスタ、湯で加減、最高!」
「良かった。いつも豊さんにご馳走になっているから・・」
どの料理も豊の舌を満足させた。
デザートは、形が、不揃いの苺と、もみじ饅頭・・
「6月に苺? でも甘くて上手いね。」
「行って見ますか?」
真由は、そう告げると人差し指を立てた。
「えっ・・?」
「上、屋上・・」
リビングから玄関を出て非常階段を登ると雲ひとつない原宿の空が、広がって
いる。
「気持ちいい~」
屋上の南側には、たくさんのプランターが、段になって、並んでいた。
「今、育てているのは、プチトマトときゅうり、ナス、インゲン・・」
「すごいね~。 大変じゃない? あ、苺・・」
「自然に苗から育てると、普通は、4月下旬から5月上旬に収穫出来るの。
でも、苗植えが、遅くなってしまって、今になった。」
真由は、愛しそうに葉に触れていた。
「あの緑は?」
「明治公園。 柴犬を飼っていた時は、よく行ったけど、最近、行ってない。
そう言えば、豊さんのお家の近くにも大きな公園、ありますよね。」
「ああ・・駒沢公園ね。 あそこにトラックやハーフ・マラソンのコースが、
あって走るのにいいよ。」
二人は、梅雨の晴れ間、緑の空気を吸いながら、とりとめのない話をした。
真由は、手を伸ばせば届く距離にいる豊を想った。
一緒に同じ時を、過ごしている・・ただ、それだけで、満たされていた。
真由は、束ねた髪を解き、爽やかな初夏の風にその髪を預けた。
豊は、額に掛かる髪をそっと掻き分ける真由の横顔を見た。
綺麗だと、思った。
仕事柄、容姿の美しい人は、周囲に五萬と居る。
でも見せかけの美しさではなく、本当に美しい人は、地に足の就いた人、
自分をしっかりと持っている人だと・・そう思うのだった。
「ここは?」
階段の踊り場の近くにビニールハウスが、あり鮮やかなピンク色の蘭の
花が、見えている。
「父が、大切に育てている鉢植えなの・・」
「部屋に戻りましょうか?」
空気が、少し湿気を帯びて、急に薄暗くなってきた。
また、梅雨空になるのだろうか?
5階に降りてリビングで、以前飼っていた柴犬の写真を豊に見せて談笑して
いると、玄関から声が、聞こえて敬三が、現れた。
「ただいま~」
「お父さん、どうしたの? まだ、4時・・」
「いやぁ~。セミナーの途中から頭痛がして、我慢出来なくて、帰って来た。
身体もダルイし、風邪かもしれない・・」
その時、敬三は、真由の傍らにいる一人の男性の姿に気づき、声を失った。
真由から友人が、来ると、聞いてはいたが、まさか男性とは、思いも
しなかった。 それに、端正な顔立ち、憂いのある瞳、気品漂う、その男性に
見覚えが、あった。
「お父さん、紹介します。お友達の佐竹さん。」
「佐竹です。お邪魔しています。」
豊は、予想もしなかった、敬三の登場に戸惑っていたが、落ち着きを装った。
さ・た・け だって?
敬三は、頭の痛みと、この混乱で、今にも倒れそうになる自分と、戦っていた。
真由は、父と豊の間に流れる緊張感を取り直そうと声をかけた。
「豊さん、手伝って・・」
真由の手招きで、豊は、キッチンに入り、食器を洗い始めた。
「お父さん、大丈夫? 薬飲んで、ゆっくり休んで・・」
「うん、そうするよ。」
そう言うと敬三は、戸棚から薬を取り、キッチンに居る二人を見た。
「豊さん、これもお願い・・」
「はい、はい・・」
あんな幸せそうな笑顔の真由を見るのは、久しぶりな気が、した。
そして、あの男性に惹かれているのが、見てとれた。
服を着替え、寝室のベッドで、横になった。
真由は、知らないのか?
数年前、「人間の証明」を見ていた時、真由は、どうしていたんだ?
思い返せば、自分が、テレビを見ている傍らでは、真由が、洗濯物の
片付け、アイロンがけ、繕いものをしていた・・
ゆっくりテレビを見ている暇さえ、無かった。
今もずっと、忙しさに感けて、気使ってやれて無い・・
美紀の時もそうだった・・
自分が、そうさせてしまったのだ。
そっと、見守るしかない・・でもいつか、真由も本当のことを知る。
その時、真由は、どうなるんだ?
敬三は、真由の`たったひとつの恋`の行く末を案じた。
「じゃあ、これで失礼するね。」
豊は、洗い物を終えると、玄関に急いだ。
「お客さんに洗いもの頼んで、すみません。」
いや、真由の機転で、助かった。
「今日は、ご馳走様。 楽しかった。 また連絡するから・・」
真由は、足早に去る豊の後ろ姿を見送った。
外は、いつの間にか、暗闇に包まれ路面だけでなく、真由の胸の奥
まで、濡れるような雨が、降っていた。
こんな形で、知られたくなかった。
豊は、帰りの車中、真由の父の、自分を見る多くの人と同じ目を思い
出していた。 いつか真由に、自然な形で、自分から本当のことを
伝えようと決めていた。
彼女ならきっと軽く受け流してくれる・・多くの人が、そうなように
物見胡散で、自分に興味を持つ人では、ないと信じていたから・・
でも、お父さんから聞けば、その形は、崩れる。
彼女を傷つけてしまう。 豊は、心が、痛んだ。
そして、もう逢えないのでは、という不安が、過ぎった。
このまま、終わってしまうのか?
助手席に置かれた「父と暮せば」のDVDが、揺れていた。