育児を始めて、少し余裕ができて、世の中のことを知るようになりました。
社会の仕組みとか、教育とか、性差別とか……知れば知るほど思うことがあります。

すごくすごく、理不尽に晒されているんじゃないでしょうか。今の日本で生きる人って。

「なぜ、それをしなければならないのか?」に対する明確で論理的な答えがない。その答えを解ける人も、教えられる人も身近にいない。

それなのに、しなければならない。
時間に追われる日本人。
締め切りがあるからこそ焦って、よく考える機会もないままに飛び込んで、ふと我にかえって置かれている状況に戸惑って、説明のつかないもどかしさに苦しんだりする。

世界的に見ても「時間(時計)に忠実」だと評価が高い日本ですが……光があれば影もある。やっぱり弊害はあると思うのです。

義務教育の小学校には6歳になった次の4月に入る。
→そこからずっと、同じ年にスタートした子どもたちと「同学年」で中学校、高校へと進級していく。留年・浪人なんてごくわずか。大学へ進んでもだいたい同じ年頃の横並びで、そのまま会社に入って「同期」になっていく。

このあたりの6歳〜18歳、あるいは22歳くらいまでの時間への忠実さといったら!
みんな一律に進級していくってすごいことですよね。工場のベルトコンベアーみたい。でも、「それが普通」だから。
誰しもが心の中に抱えている締め切り。
「遅れを取ってはいけない」という意識。

だけど人間って機械とは違うから(←至極当たり前のことですけど、わざわざ書かなきゃ伝わらない気もして)、そう簡単に年齢とか生きた日数で割り切れるもんじゃないと思うんです。○歳になったら適齢期とか。あくまでそれは基準にすぎなくて。

確信を持つようになったのは、出産を経験してからのこと。
母親のお腹の中で十月十日を過ごして出てくる赤ちゃんと、まだ十月十日には足りなかったけれど何らかの理由で早めに出てきた赤ちゃん。
同じ「生後1日」の子でも、身体の大きさからできること(呼吸、運動など)まで全く違うスペックです。

もしかしたら、前者の「生後1日」にできることを後者は「生後60日」にやっとできるかもしれないのに……
もし後者の子が十月十日お腹にいたら「次の学年」になれていたかもしれないのに……
それでも、単純に生年月日で括ってベルトコンベアーに乗せてゆくシステムって、乗せられる本人には優しくないなと思います。最近じわじわ変わってきたとはいえ、途中下車(不登校・留年・浪人)も許されない風潮で。

せめて、納得のいく説明を。
それか、納得するまでに必要な時間の確保を。

どんなに求めても簡単には得られないこの二つ。得ようと思えば多大なる犠牲(お金や世間体)が伴います。

理不尽に耐えられたら、勝ち組。
理不尽に耐えられなかったら、負け組。

感受性が高くて思慮深い人ほど、傷つきやすくて損しやすい世の中の仕組みになっているのかな、と思ってやみません。

感受性が高くて思慮深い人って、本来なら尊い存在のはず。社会にとってかけがえのない才能のひとつであるはず。

「傷つきやすい」「損しやすい」って本人の特性じゃなくて、社会でそうあるように設定されている結果に過ぎないんじゃないかな。

「じゃあどんな社会が理想なの?」と考えるほどに、感受性が高くて思慮深い人が傷つかず損せずに生きて活躍できる社会ほど、成熟しているような気がしています。