東日本大震災から三年半を迎えた十一日、津波で大きな被害に遭った岩手、宮城、福島の三県沿岸部では、各県警などが行方不明者の手掛かりを求めて集中捜索した。仮設住宅には、失った家族への思いを胸に自宅の再建を誓う人の姿も。警察庁によると十日現在、計二千六百一人の行方が分かっていない。
「じいじ」と呼ぶ幼い声が、今も耳から離れない。「夢でいいから出てきて」。東日本大震災で孫ら家族四人を失った岩手県釜石市の鈴木堅一さん(71)はそう願い、津波で流された自宅跡地に花を植え続けてきた。この日も、仮設住宅で遺影を前に誓った。「みんなのために、家さ早く建てるんだ」
あの日、自宅リビングで妻信子さん=当時(64)、長男健幸(けんこう)さん=同(44)、その妻奈津子さん=同(45)=とテレビを見ていると、激しい揺れに襲われた。消防団員の鈴木さんが真っ先に手にしたのは、団のはんてん。地震の時は水門を閉める任務だった。
仕事が休みの健幸さんが、孫で五年生だった理子(りこ)さん=当時(11)=を迎えに小学校へ。「気をつけて」。そう言い合ったのが最後になった。
背後に迫る灰色の波から逃げ延び、その後も消防団として住民の遺体確認などに明け暮れた。三日目、無事と信じていた健幸さんの車がぐちゃぐちゃになって見つかる。「あぁ流されたんだな、死んだんだなって分かった」
数日後、活動の合間に訪れた自宅はがれきが突き刺さっていた。変わり果てたわが家を見つめていると、ふと心の中で聞こえた気がした。「お父さん」と呼ぶ信子さんの声。「じいじ」と呼ぶ理子さんの声-。「絶対ここさいる」。声のした二階の子ども部屋で、四人が遺体で見つかった。
足が不自由だった信子さんをみんなで守ろうとしたのかもしれない。今も仮設にいるとふと思う。「なんで俺はこんな所にいんだべ」「俺が消防団さ入ってねば、みんなを逃がしたべ」
将来の夢は「看護婦さん」。そんな孫の先が絶たれたことが悔しい。かき氷が好きで「じいじはイチゴミルク、理子はブルーハワイね」とはしゃいだ。震災数日前も「一緒に寝る」と鈴木さんの布団に潜り込んできた。
三年半、更地になった自宅跡地に通い、花を植えてきた。春には赤、白、黄色の鮮やかなチューリップ、初夏にはりんとした青紫のアヤメ…。信子さんが大切にしていた球根が生き残り、芽を出したものもあった。
八月、かさ上げ工事前の最後の花が咲き誇った。背丈よりも高くまっすぐに伸び、天まで届くかのようなヒマワリ。見上げながら、そっと笑った。「きっと仏さんも喜んでるべ」。花びらが散るのと同時に重機が入った。かつてのわが家はもうすぐ、土の中に埋まる。
また同じ場所に家を建て、四人と一緒に歩んでいこう。すてきな女の子に成長した理子さんが帰ってくるための、子ども部屋もつくって。「もう一回、夢でもなんでもいいからさ。じいじって…呼んでくれねえかな」
今日も捜索ありがとぅございますm(__)m