被団協にノーベル平和賞

 喜びの声があふれています。その一部を紹介します。

<社説>ノーベル平和賞 被爆者の声を抑止力に  (東京新聞)

 ノーベル平和賞の受賞者に、長年にわたり世界に向けて核廃絶を訴えてきた日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が決まった。世界各地で軍事侵攻や紛争が続き、核使用の脅威がかつてないほど高まる中、「ヒバク
シャ」の声こそが抑止力だという、期待と希望のメッセージと受け止めたい。
 広島、長崎の被爆者の全国組織である被団協は、1956年の結成。国連の軍縮総会などで一貫して「被爆の実相」を世界に発信し「核廃絶」を訴え続けてきた。核兵器の使用と開発を非合法化する「核兵器禁止条約」の
採択の際には、300万の署名を提出するなどして強力に後押しした。
 北朝鮮の金正恩総書記や、ウクライナ侵攻を続けるロシアのプーチン大統領は核使用の威嚇を繰り返す。核保有国とされるイスラエルと核開発を続けるイランが対立する中東情勢も緊張が高まっている。
 「私たちが望んでいるのは、核抑止でも核共有でもなく核廃絶。これしかない」とは、生後間もなく広島で被爆した男性の言葉だ。こんな局面だからこそ、核兵器の怖さと悲惨さを身にまとうヒバクシャの言葉
は、なお重い。
 米国の「核の傘」の下にある日本は唯一の戦争被爆国として「核のない世界」を訴えながら、核兵器禁止条約への署名・批准を拒み続けている。
被団協が求めてきた、批准国のような義務のない「オブザーバー参加」さえ見送り続けている。
 石破茂首相は外遊先のラオスで受賞決定の知らせを受けて「極めて意義深い」と述べた。真に「意義深く」するためには、まず国としてその思いを受け止め、被団協が成立の原動力になった核兵器禁止条約へ
の参加に踏み切るべきだ。さらに、国の指定区域の外で被爆した「被爆体験者」を被爆者と認めて、すべてのヒバクシャに補償の道をひらくべきである。
 20歳の時に広島で被爆、大やけどを負い、重い原爆症を負いながら証言活動を繰り返し、ヒバクシャの象徴と言われた元代表委員の坪井直(すなお)さんは晩年、「核兵器が廃絶されるのをこの目で見たい。でも見られなくても、後世の人に必ず成し遂げてもらいたい」と語っていた。その口癖は「ネバーギブアップ」。今回の受賞を機に、あらためて、その思いを世界と共有したい。
                  (10月12日東京新聞「社説」)

◆「次は核廃絶」 広島県被団協理事長が原爆慰霊碑にノーベル賞報告

  日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞の受賞決定から一夜明けた12日、被爆地・広島では平和や「核なき世界」への願いが改めて広がった。

 広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)理事長の佐久間邦彦さん(79)はこの日朝、広島市の平和記念公園にある原爆慰霊碑を訪問。死没者たちに受賞決定を報告し、黙とうをささげた。

 広島原爆投下後に降った「黒い雨」の被害を訴え、核廃絶を求め続けてきた佐久間さん。「昨晩は興奮して寝られなかった。この受賞を亡くなった被爆者と一緒に喜びたい。次は慰霊碑に核が廃絶されたこと
報告したい」と報道陣に語った。
              (10月12日 毎日新聞 (最終更新 10/12 09:28)配信)   
     https://mainichi.jp/articles/20241012/k00/00m/040/034000c 

◆ノーベル平和賞「活動の自信に」 被爆者、核廃絶の決意新た
   10月12日 10時25分 (共同通信配信)   長崎

 「自信を持って活動を進められる」「理想を追求することの大切さに気付いた」。日本原水爆被害者団体協議会(被団協)がノーベル平和賞に決まって一夜明けた12日、広島市と長崎市では被爆者や観光客らが
爆心地付近を訪れ、核廃絶への決意を新たにした。
 「長崎を最後の被爆地に」と被爆者や市民の活動が続いてきた長崎市。福島市から仕事で訪れた鈴木ひろ子さん(57)は平和公園の平和祈念像に立ち寄り「福島は原発の問題があり、長崎を身近に感じていた。世界情勢が悪化する中、あえてこのタイミングでの受賞なのかなと思う」とたたえた。
 広島市の波田保子さん(88)は、両親が爆心地から約1・5キロの場所で被爆し、県内の学童疎開先から8月13日に戻って入市被爆した。
両親は長年放射線の被害に苦しみ、家族は差別と闘い続けてきた。
 署名集めなどの運動に加わってきた波田さんは12日朝に平和記念公園の慰霊碑を訪れ「生きている間に核兵器をなくしたいという思いで、一筆一筆を集めてきた。広島から世界へ、一歩でも大きく発信をしたい」と力を込めた。
            https://www.tokyo-np.co.jp/article/360019?rct=national