坂本龍一さん 

 

 

 

     71歳

 

 

 

       早すぎます

 

 

 

 

 

 ご冥福をお祈りします。

 

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 NHK

 

坂本龍一さんの最後の様子 長年親交続けてきた編集者が語る

がんの闘病生活を続けてきた坂本龍一さんは、月刊雑誌で、去年7月号からことし2月号まで『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』と題する自伝を連載していました。この連載を担当し、20数年間、親交を続けてきた編集者の鈴木正文さんに坂本さんの最後の様子について話を聞きました。

連載では坂本さんが「何もしなければ余命半年です」と医師に告げられたことや、息子に教わり、ふだんは聞くことがなかったアメリカのカントリーの曲に思いがけず心を動かされ、涙を流したことなどがつづられています。

鈴木さんは、連載のためのやりとりの中で、坂本さんが、毎回、音楽だけでなく社会に対するメッセージを発し続けていたことに感銘を受けたと振り返りました。

 

「音楽はもちろんですが、原発や安保法制、気候の問題など、すべての人の文化的、現実的な生活に影響がある大事な問題について、積極的に見解を述べていました」最後に会った先月8日には、坂本さんは日本文学の本を何冊か手元に持ってきて、その中に大正初期の変わりゆく東京の姿を描いた永井荷風の『日和下駄』という作品の初版本があったということです。

鈴木さんは「『日和下駄』は、自動車道路ができたり、開発で地形が変わったりして様変わりしていく東京を荷風が散歩するという話ですが、坂本さんは、現代の東京が、オリンピックなどを契機に変わっていくのを荷風が嘆いたのと同じように感じていたのだと思います」と話していました。

 

また、鈴木さんは坂本さんが日本社会に与えた影響力について「外国の人が日本人ってどんな人といったときに『坂本さん』の名前が必ず出ます。もし彼がいなかったら日本の現代文化に関するイメージはずいぶん違ったのではないかと思います。日本の現代文化のステータスを上げた人で、そういう人はもういないので、彼の存在は大きかったです」と語りました。

そして「坂本さんは何かになろうとか、偉大なものになろうとか、そういうことを思ったことはなかったと思います。自分の死期が近くなってからの生き方、死に方に悔いはないと話していました。歩んできた道の途中で倒れたわけですが、そこから先は彼に続く人がまた歩いていくのだと思います」と話していました。

 

 

 

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死を前に都知事に手紙 坂本龍一さんが訴えた神宮外苑の再開発見直し

 

坂本龍一さん=東京都港区で2020年3月21日、北山夏帆撮影

 

 環境問題にも取り組んでいた音楽家の坂本龍一さん(3月28日死去)は、東京・明治神宮外苑の再開発による自然破壊を懸念し、2月24日付で小池百合子都知事に見直しを求める手紙を送っていた。所属事務所が明らかにした。

 

  【写真特集】坂本龍一さん、多彩な活躍 若き日の素顔も 

 

 坂本さんは手紙で「先人が100年をかけて守り育ててきた貴重な神宮の樹々を犠牲にすべきではありません」とし、再開発の見直しを求めたうえで「あなたのリーダーシップに期待します」と結んだ。

 

  明治神宮や三井不動産などの事業者は、神宮球場と秩父宮ラグビー場を建て替え、高層ビルの建設も予定する。環境影響評価書によると、新たに植樹もするが、既存の樹木743本を伐採する。再開発は3月22日に着工された。

 

  反対運動に取り組んでいる専門誌編集長の西川直子さん(64)は「病気で大変だったはずなのに、一つの希望でした」と振り返る。  坂本さんは森林保全団体「more trees(モア・トゥリーズ)」の代表も務めていた。水谷伸吉事務局長は3日、「歩みを止めずに、森林保全というテーマと向き合っていくことが弔いになると思う」と語った。  一方、小池氏は3月17日の定例記者会見で坂本さんの手紙について問われ「事業者からは緑の量を増やすと聞いている。こうした取り組みを、坂本さんはじめさまざまな方々にも伝わるように情報発信するように改めて指示している」と述べた。  3日午前には入庁時に報道陣から坂本さん死去の感想を問われ、「心からお悔やみ申し上げます」と短く述べた。【柳澤一男、黒川晋史、岩本桜】  坂本龍一さんが東京都知事に送った手紙の主な内容は以下の通り。 

 

   ◇   ◇ 

 

東京都知事 小池百合子様

 

 突然のお手紙、失礼します。 私は音楽家の坂本龍一です。

 

 神宮外苑の再開発について私の考えをお伝えしたく筆をとりました。 どうかご一読ください。 率直に言って、目の前の経済的利益のために先人が100年をかけて守り育ててきた貴重な神宮の樹々を犠牲にすべきではありません。

 

 これらの樹々はどんな人にも恩恵をもたらしますが、開発によって恩恵を得るのは一握りの富裕層にしか過ぎません。

 

この樹々は一度失ったら二度と取り戻すことができない自然です。

 

 私が住むニューヨークでは、2007年、当時のブルームバーグ市長が市内に100万本の木を植えるというプロジェクトをスタートさせました。

 

環境面や心の健康への配慮、社会正義、そして何より未来のためであるとの目標をかかげてのこと、慧眼(けいがん)です。

NY市に追随するように、ボストンやLAなどのアメリカの大都市や中規模都市でも植林キャンペーンが進んでいます。

 

(中略)

 

 いま世界はSDGs(持続可能な開発目標)を推進していますが、神宮外苑の開発はとても持続可能なものとは言えません。持続可能であらんとするなら、これらの樹々を私たちが未来の子供達へと手渡せるよう、現在進められている神宮外苑地区再開発計画を中断し、計画を見直すべきです。

 

 東京を「都市と自然の聖地」と位置づけ、そのゴールに向け政治主導をすることこそ、世界の称賛を得るのではないでしょうか。 

 

そして、神宮外苑を未来永劫(えいごう)守るためにも、むしろこの機会に神宮外苑を日本の名勝として指定していただくことを謹んでお願いしたく存じます

 

 あなたのリーダーシップに期待します。

 

 2023年2月24日 

 

坂本龍一

 

 

 

『日和下駄』


東京市中散歩の記事を集めて『日和下駄』と題す。そのいはれ本文のはじめに述べ置きたれば改めてここには言はず。『日和下駄』は大正三年夏のはじめころよりおよそ一歳あまり、月々雑誌『三田文学』に連載したりしを、この度米刃堂

へいじんどう主人のもとめにより改竄

かいざんして一巻とはなせしなり。ここにかく起稿の年月を

あきらかにしたるはこの書

はん成りて世に出づる頃には、篇中記する所の市内の勝景にして、既に破壊せられて跡方もなきところ

すくなからざらん事を思へばなり。見ずや木造の今戸橋

いまどばし

はやくも変じて鉄の釣橋となり、江戸川の岸はせめんとにかためられて再び露草

つゆくさの花を見ず。桜田御門外

さくらだごもんそとまた芝赤羽橋

むこう閑地

あきちには土木の工事今まさに

おこらんとするにあらずや。昨日の

ふち今日の瀬となる夢の世の形見を伝へて、

つたなきこの小著、幸に後の日のかたり草の種ともならばなれかし。
  乙卯

いつぼうの年晩秋

荷風小史

[#改丁]
 

第一 日和下駄


 人並はずれて

せいが高い上にわたしはいつも日和下駄

ひよりげたをはき蝙蝠傘

こうもりがさを持って歩く。いかに

く晴れた日でも日和下駄に蝙蝠傘でなければ安心がならぬ。これは年中湿気

しっけの多い東京の天気に対して全然信用を置かぬからである。変りやすいは男心に秋の空、それにお

かみ御政事

おせいじとばかり

きまったものではない。春の花見頃午前

ひるまえの晴天は午後

ひるすぎの二時三時頃からきまって風にならねば夕方から雨になる。梅雨

つゆ

うちは申すに及ばず。土用

どよう

ればいついかなる時驟雨

しゅうう沛然

はいぜんとして

きたらぬとも

はかりがたい。

もっともこの変りやすい空模様思いがけない雨なるものは昔の小説に出て来る才子佳人が

わりなき

ちぎりを結ぶよすがとなり、また今の世にも芝居のハネから急に降出す雨を幸いそのまま人目をつつむ

ほろ

うち、しっぽり何処

どこぞで濡れの場を演ずるものまたなきにしもあるまい。閑話休題

それはさておき日和下駄の効能といわば何ぞそれ不意の雨のみに限らんや。天気つづきの冬の日といえども山の手一面赤土を捏返

こねかえ霜解

しもどけも何のその。アスフヮルト敷きつめた銀座日本橋の大通

おおどおり、やたらに

どぶの水を

きちらす泥濘

ぬかるみとて一向驚くには及ぶまい。
 

わたしはかくの如く日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く。
 市中

しちゅうの散歩は子供の時から好きであった。十三、四の頃私の

うちは一時小石川

こいしかわから麹町永田町

こうじまちながたちょうの官舎へ引移

ひきうつった事があった。勿論

もちろん電車のない時分である。私は神田錦町

かんだにしきちょうの私立英語学校へ

かよっていたので、半蔵御門

はんぞうごもん這入

はいって吹上御苑

ふきあげぎょえんの裏手なる老松

ろうしょう鬱々たる代官町

だいかんちょう

とおりをばやがて片側に二の丸三の丸の高い石垣と深い堀とを望みながら竹橋

たけばしを渡って平川口

ひらかわぐち御城門

ごじょうもんを向うに昔の御搗屋

おつきや今の文部省に沿うて

ひと

ばしへ出る。この道程

みちのりもさほど遠いとも思わず初めの

うちは物珍しいのでかえって楽しかった。宮内省

くないしょう裏門の筋向

すじむこうなる兵営に沿うた土手の中腹に大きな

えのきがあった。その頃その木蔭

こかげなる土手下の路傍

みちばたに井戸があって夏冬ともに甘酒

あまざけ大福餅

だいふくもち稲荷鮓

いなりずし飴湯

あめゆなんぞ売るものがめいめい荷を

おろして往来

ゆききの人の休むのを待っていた。車力

しゃりき馬方

うまかたが多い時には五人も六人も休んで飯をくっている事もあった。これは竹橋の方から這入って来ると御城内

ごじょうない代官町の通は歩くものにはそれほどに気がつかないが車を

くものには限りも知れぬ長い坂になっていて、丁度この

へんがその中途に当っているからである。東京の地勢はかくの如く漸次

ぜんじに麹町四谷

よつやの方へと高くなっているのである。夏の炎天には私も学校の帰途

かえりみち井戸の水で車力や馬方と共に手拭

てぬぐいを絞って汗を拭き、土手の上に登って大榎の木蔭に休んだ。土手にはその時分から既に「昇ルベカラズ」の立札

たてふだ付物

つきものになっていたが構わず登れば堀を隔てて遠く町が見える。かくの如き眺望は

あえてここのみならず、外濠

そとぼり松蔭

まつかげから牛込

うしごめ小石川の高台を望むと同じく先ず東京

ちゅうでの絶景であろう。
 私は錦町からの帰途桜田御門

さくらだごもんの方へ廻ったり九段

くだんの方へ出たりいろいろ遠廻りをして目新しい町を通って見るのが面白くてならなかった。しかし一年ばかりの

のち途中の光景にも少し

きて来た頃私の家は再び小石川の旧宅に立戻

たちもどる事になった。その夏始めて両国

りょうごく水練場

すいれんばへ通いだしたので、今度は繁華の下町

したまち大川筋

おおかわすじとの光景に一方

ひとかたならぬ

きょうを催すこととなった。
 今日

こんにち東京市中の散歩は私の身に取っては生れてから今日に至る過去の生涯に対する追憶の道を辿

たどるに外ならない。これに加うるに日々

にちにち昔ながらの名所古蹟を破却

はきゃくして行く時勢の変遷は市中の散歩に無常悲哀の寂しい詩趣を帯びさせる。およそ近世の文学に現れた荒廃の詩情を

あじわおうとしたら埃及

エジプト伊太利

イタリー

おもむかずとも現在の東京を歩むほど無残にも

いたましい

おもいをさせる処はあるまい。今日

きょう

て過ぎた寺の門、昨日

きのう休んだ路傍

ろぼうの大樹もこの次再び来る時には

かならず貸家か製造場

せいぞうばになっているに違いないと思えば、それほど由緒

ゆかりのない建築もまたはそれほど年経

としへぬ樹木とても何とはなく奥床

おくゆかしくまた悲しく打仰

うちあおがれるのである。
 一体江戸名所には昔からそれほど誇るに足るべき風景も建築もある訳ではない。既に宝晋斎其角

ほうしんさいきかくが『類柑子

るいこうじ』にも「隅田川絶えず名に流れたれど加茂

かも

かつらよりは

いやしくして肩落

かたおちしたり。山並

やまなみもあらばと願はし。目黒

めぐろは物ふり山坂

やまさかおもしろけれど果てしなくて水遠し、嵯峨

さがに似てさみしからぬ風情

ふぜいなり。王子

おうじ宇治

うじ柴舟

しばぶねのしばし目を流すべき島山

しまやまもなく護国寺

ごこくじ吉野

よしのに似て一目

ひとめ千本の雪の

あけぼの思ひやらるゝにや

ここ

ながれなくて口惜

くちおし。住吉

すみよし移奉

うつしまつ佃島

つくだじまも岸の姫松の

すくなきに反橋

そりばしのたゆみをかしからず宰府

さいふ

あが

たてまつる名のみにして染川

そめかわの色に合羽

かっぱほしわたし思河

おもいかわのよるべに

あくた

うずむ。都府楼観音寺唐絵

とふろうかんのんじからえと云はんに四ツ目の鐘の

はだかなる、報恩寺

ほうおんじ

いらか[#「甍」は底本では「薨」]の白地

しらじなるぞ屏風

びょうぶ立てしやうなり。木立

こだち薄く梅紅葉

うめもみじせず、三月の末藤にすがりて回廊に

むしろを設くるばかり野には心もとまらず……云々

うんぬん。」そして其角は江戸名所の

うち唯ひとつ無疵

むきずの名作は快晴の富士ばかりだとなした。これ恐らくは江戸の風景に対する最も公平なる批評であろう。江戸の風景堂宇には一として京都奈良に及ぶべきものはない。それにもかかわらずこの都会の風景はこの都会に生れたるものに対して必ず特別の興趣を催させた。それは昔から江戸名所に関する案内記狂歌集絵本の

たぐい

おびただしく出板

しゅっぱんされたのを見ても容易に推量する事が出来る。太平の世の武士町人は物見遊山

ものみゆさんを好んだ。花を愛し、風景を眺め、古蹟を

う事は即ち風流な最も上品な

たしなみとして尊ばれていたので、実際にはそれほどの興味を持たないものも、時にはこれを

てらったに相違ない。江戸の人が最も盛に江戸名所を尋ね歩いたのは私の見る処やはり狂歌全盛の天明

てんめい以後であったらしい。江戸名所に興味を持つには是非とも江戸軽文学の素養がなくてはならぬ。一歩を進むれば戯作者気質

げさくしゃかたぎでなければならぬ。
 この

ごろ私が日和下駄をカラカラ

ならして再び市中

しちゅうの散歩を試み初めたのは無論江戸軽文学の感化である事を

こばまない。しかし私の趣味の

うちには

おのずからまた近世ヂレッタンチズムの影響も

まじっていよう。千九百五年巴里

パリーのアンドレエ・アレエという一新聞記者が社会百般の現象をば芝居でも見る気になってこれを見物して歩いた記事と、また仏国各州の都市古蹟を歩廻

あるきまわった印象記とを合せて En

アン Flanant

フラアナン と題するものを

おおやけにした。その時アンリイ・ボルドオという批評家がこれを機会としてヂレッタンチズムの何たるかを解剖批判した事があった。

ここにそれを紹介する必要はない。私は

ただ西洋にも市内の散歩を試み、近世的世相と並んで過去の遺物に興味を持った同じような傾向の人がいた事を

ことわって置けばよいのである。アレエは西洋人の事故

ことゆえその態度は無論私ほど社会に対して無関心でもなくまた肥遯的

ひとんてきでもない。これはその本国の事情が異っているからであろう。彼は別に為すべき仕事がないからやむをえず散歩したのではない。

みずから進んで観察しようと

くわだてたのだ。しかるに私は別にこれといってなすべき義務も責任も何にもないいわば隠居同様の身の上である。その日その日を送るになりたけ世間へ顔を出さず金を使わず相手を要せず自分一人で勝手に呑気

のんきにくらす方法をと色々考案した結果の一ツが市中のぶらぶら歩きとなったのである。
 仏蘭西

フランスの小説を読むと零落

おちぶれた貴族の

いえに生れたものが、僅少

わずかの遺産に自分の身だけはどうやらこうやら日常の衣食には事欠かぬ代り、浮世の

たのしみ余所

よそ人交

ひとまじわりもできず、一生涯を果敢

はかなく淋しく無為無能に送るさまを描いたものが沢山ある。こういう人たちは何か世間に名をなすような専門の研究をして見たいにもそれだけの資力がなし職業を求めて働きたいにも働く口がない。せん方なく素人画

しろうとえをかいたり釣をしたり墓地を歩いたりしてなりたけ金のいらないようなその日の送方

おくりかたを考えている。私の境遇はそれとは全く違う。しかしその行為とその感慨とはやや同じであろう。日本

にほんの現在は文化の爛熟してしまった西洋大陸の社会とはちがって資本の有無

うむにかかわらず自分さえやる気になれば為すべき事業は沢山ある。男女烏合

うごう

を集めて芝居をしてさえもし芸術のためというような名前を付けさえすればそれ相応に看客

かんきゃくが来る。田舎の中学生の虚栄心を誘出

さそいだして投書を

つのれば文学雑誌の経営もまた容易である。慈善と教育との美名の

もとに弱い家業の芸人をおどしつけて安く出演させ、切符の押売りで興行をすれば濡手

ぬれて

あわ大儲

おおもうけも出来る。富豪の人身攻撃から段々に強面

こわもての名前を売り出し懐中

ふところの暖くなった汐時

しおどき見計

みはからって妙に紳士らしく上品に構えれば、やがて国会議員にもなれる世の中。現在の日本ほど為すべき事の多くしてしかも容易な国は恐らくあるまい。しかしそういう風な世渡りを

いさぎよしとしないものは

よろしく自ら譲って退

しりぞくより

ほかはない。市中の電車に乗って行先

ゆくさきを急ごうというには乗換場

のりかえば

すぎ

たびごとに見得

みえ体裁

ていさいもかまわず人を突き退

我武者羅

がむしゃらに飛乗る蛮勇

ばんゆうがなくてはならぬ。自らその蛮勇なしと

かえりみたならば

いたずら

いた電車を待つよりも、泥亀

どろがめの歩み遅々

ちちたれども、自動車の通らない横町

よこちょうあるいは市区改正の破壊を

まぬかれた旧道をてくてくと歩くに

くはない。市中の道を行くには

かならずしも市設の電車に乗らねばならぬと

きまったものではない。いささかの遅延を忍べばまだまだ悠々として濶歩

かっぽすべき道はいくらもある。それと同じように現代の生活は亜米利加風

アメリカふうの努力主義を以てせざれば食えないと極ったものでもない。

ひげ

はやし洋服を着てコケを

おどそうという田舎紳士風の野心さえ起さなければ、よしや身に一銭の

たくわえなく、友人と称する共謀者、先輩もしくは親分と称する阿諛

あゆの目的物なぞ一切皆無

かいむたりとも、なお優游

ゆうゆう自適の生活を

いとなむ方法は

すくなくはあるまい。同じ露店の大道商人となるとも自分は髭を生し洋服を着て演舌口調に医学の説明でいかさまの薬を売ろうよりむしろ黙して裏町の縁日

えんにちにボッタラ

やきをやくか粉細工※(「米+參」、第3水準1-89-88)

しんこざいくでもこねるであろう。苦学生に扮装したこの頃の行商人が横風

おうふうに靴音高くがらりと人の

うち格子戸

こうしどを明け田舎訛

いなかかまりの高声

たかごえに奥様はおいでかなぞと、ややともすれば強請

ゆすりがましい凄味

すごみな態度を示すに引き比べて昔ながらの脚半

きゃはん草鞋

わらじ菅笠

すげがさをかぶり孫太郎虫

まごたろうむし水蝋

いぼた

むし箱根山

はこねやま山椒

さんしょ

うお、または越中富山

えっちゅうとやま千金丹

せんきんたんと呼ぶ声。秋の

ゆうべや冬の

あしたなぞこの声を聞けば

なにとも知れず悲しく淋しい気がするではないか。ganakuna