《「子どもと教科書全国ネット21ニュース」から》
 ◆ 日本社会における「表現の自由」の危機
   ~公立文化施設の現場から考えること

武居利史(たけいとしふみ・府中市美術学芸員)

 


《構内デモ》1955年、国鉄労働組合


 ◆ 表現の自由」への抑圧は、民主主義社会の土台を掘り崩す

 あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」は、開幕直後に外部からの脅迫や抗議によって中止に追い込まれた。
 この事件は大きく報道され、日本の「表現の自由」がきわめて危機的な状態にあることをあからさまに示した。
 特に従軍慰安婦や昭和天皇に関わる表現が注目を集めたが、そもそも「表現の不自由展」全体が公立美術館をはじめとする文化施設などで展示拒否に遭ったり、作品の改変を迫られたりした作品ばかりを集めた展示であった。


 近年、公立の文化施設や社会教育施設において、さまざまな表現に対する規制が起きて問題になってきている。
 社会全体がコロナ禍に突入してからは、そうした問題も鎮静化しているように見えるが、今後文化芸術に関わる活動が平常に戻ったときに、ふたたび現前化してくる恐れは否定できない。

 昨年、「表現の不自由展」は、東京、名古屋、大阪、京都を巡回する計画が立てられたにも関わらず、厳しい運営を強いられた。
 東京では、民間のギャラリーが会場であったものの右翼の妨害により開催できなくなり、名古屋では不審な郵便物が送付ざれたことを理由に途中で中止、大阪では開幕前に施設側の使用拒否に遭い、処分の撤回を求めて裁判所に訴え、処分の取り消し命令を得てようやく開催、京都では限定的な形での開催になったという。

 あいちトリエンナーレ以後、「表現の不自由展」自体が、右翼や排外主義的な勢力の格好の標的になってしまったとはいえ、ある種の政治的性格を帯びているからといって特定の美術作品が公共の場所から締め出されていく状況は、憲法21条「表現の自由」の保障と検閲の禁止を定めている国として、極めて異常な事態だと言わざるを得ない。
 アーティストであったり、ジャーナリストであったり、主体的に何らかの表現活動に関わらなければ、多くの人にとって「表現の自由」など、あまり重要な権利とは理解されにくいものかもしれない。

 しかし、「表現の自由」は、鑑賞や受容の自由と一体のものであり、送り手の権利だけではなく、受け手の権利をも意味していると考えると、「表現の自由」への圧迫は、すべての人の権利にとっての侵害であることが理解できよう。
 「表現の自由」が抑圧されることは、自由な民意の形成を阻害し、民主主義社会の土台を掘り崩すものだ。
 公共空間から、たんに自分とは意見があわないとか、不快であるといった理由だけで、多様な表現が排除されていく事態を看過してはならないと思う。


 ◆ 自分の身に起こった事件をきかっけに生まれた関係者どうしの連帯

 私がこのような問題を考え始めるにようになったのは、自分が勤務する美術館である展示に対する規制の事件に遭遇してからである。
 2016年、新海覚雄という半世紀前に亡くなった洋画家の展示を担当者として企画した際に、開幕直前になって上の方からの圧力を受け、内容の見直しを求められたのである。

 新海という画家は、戦後の労働運動や平和運動に関わり、そうしたものを主題として写実的な手法で描いているのだが、特に重要な仕事として、米軍基地反対運動の先駆けともいえる東京・立川の砂川闘争の支援に人り、地元で反対する農民の肖像を描いた連作がある。
 1950年代におけるルポルタージュ絵画の典型的作例で、美術史的にも意義のある展示と考えていたが、そうした基地問題に関わる内容を美術館で展示することを快く思わない人もいたのだ。
 前年には安保法制が成立し、辺野占の基地建設をめぐって連日、マスコミが報じていた時期でもある。
 米軍基地問題には触れさせたくない政治的意図が働いていたと考えられる。

 公立美術館での自主規制がどのように起きるのかということを、私自身が身をもって理解した。
 当時、この一件は隠しておくべきではないと思い、SNSに投稿などをして自分でオープンにしたので、その後組織内ではさんざん叩かれるはめになったが、逆に組織の外では「表現の自由」に危機感を持つさまざまな方々とつながりを得ることができ、「表現の自由」問題での学習会や講演会にたびたび呼ばれるようになった。

 さいたま市で憲法九条を詠んだ俳句が公民館だよりに不掲載となり、句の掲載を求めてたたかった「九条俳句訴訟」の関係者の方々と出会ったこと、母校である東京藝術大学での「芸術と憲法を考える連続講座」実行委員を引き受けたこと、「表現の不自由展」の実行委員や出品作家の方々と関係ができたことなど、同じような体験をもつ方々との関係が増えていった。

 私自身まったく予期していなかったが、自分の身に起こった事件をきかっけにして「表現の自由」を守っていくためのネットワークが自然に生まれてきたのだ。
 「表現の自由」の危機が一段と深まってくる中で、関係者どうしが連帯せざるを得なくなっている。


 ◆ 地方自治体や公立文化施設は、住民の「表現の自由」を守る立場に

 さて、2017年のこと、国内のほとんどの主要な美術館で構成される全国美術館会議が、美術館界の自主的規範として「美術館の原則と美術館関係者の行動指針」を定めた。
 その原則の一つに、「美術館は、倫理規範と専門的基準とによって自らを律しつつ、人々の表現の自由、知る自由を保障し支えるために、活動の自由を持つ」という規定が盛り込まれた。

 日本図書館協会の「図書館の自由に関する宣言」はよく知られているが、それまで美術館には活動の自由や運営の自律性についての文書が存在しなかった。
 法律ではないから実質的な拘束力はないものの、こうした文書ができたことは美術館関係者の危機感の表れといえるだろう。

 とはいえ、美術館の内部にいる人間が「表現の自由」について外部に向けて何か見解を発信するということは少ない。
 美術館は「表現の自由」を守らなければいけないと言いながら、自主規制を行う「検閲」の当事者でもあり、専門職である学芸員はその自由と規制のはざまに立たされているという事情がある。

 あいちトリエンナーレの事件では、多くの文化団体が事態を憂慮し、展示再關を求める声明を発したが、一番の関係団体である全国美術館会議は最後まで声明を出すことができなかった。
 公立美術館の多くは行政機構の一部に過ぎず、肝心の問題で独自の判断ができず、はっきりとした態度表明ができないという弱さも明らかになった。

 学校教育に対する国家の締め付けは、多くの人が認知しているところだが、公立文化施設においても似たような現象のあることはよく理解されていない。
 戦後の日本社会では、平和と民主主義の憲法の理念が広く共有され、公民館、図書館、博物館、劇場といった身近な公共施設での「表現の自由」が保持されてきた。
 しかし、近年急速にその範囲が制約されてきているように感じる。

 美術館に働いている立場で疑問に感じるのは、これほど大事な「表現の自由」について、大学の学芸員養成課程で必須の事項として学ぶこともなければ、どのような行為が憲法の禁止する検閲に当たる

 

 

 

 地方自治体や公立文化施設は、住民の「表現の自由」を守る立場に

 さて、2017年のこと、国内のほとんどの主要な美術館で構成される全国美術館会議が、美術館界の自主的規範として「美術館の原則と美術館関係者の行動指針」を定めた。
 その原則の一つに、「美術館は、倫理規範と専門的基準とによって自らを律しつつ、人々の表現の自由、知る自由を保障し支えるために、活動の自由を持つ」という規定が盛り込まれた。

 日本図書館協会の「図書館の自由に関する宣言」はよく知られているが、それまで美術館には活動の自由や運営の自律性についての文書が存在しなかった。
 法律ではないから実質的な拘束力はないものの、こうした文書ができたことは美術館関係者の危機感の表れといえるだろう。

 とはいえ、美術館の内部にいる人間が「表現の自由」について外部に向けて何か見解を発信するということは少ない。
 美術館は「表現の自由」を守らなければいけないと言いながら、自主規制を行う「検閲」の当事者でもあり、専門職である学芸員はその自由と規制のはざまに立たされているという事情がある。

 あいちトリエンナーレの事件では、多くの文化団体が事態を憂慮し、展示再關を求める声明を発したが、一番の関係団体である全国美術館会議は最後まで声明を出すことができなかった。
 公立美術館の多くは行政機構の一部に過ぎず、肝心の問題で独自の判断ができず、はっきりとした態度表明ができないという弱さも明らかになった。

 学校教育に対する国家の締め付けは、多くの人が認知しているところだが、公立文化施設においても似たような現象のあることはよく理解されていない。
 戦後の日本社会では、平和と民主主義の憲法の理念が広く共有され、公民館、図書館、博物館、劇場といった身近な公共施設での「表現の自由」が保持されてきた。
 しかし、近年急速にその範囲が制約されてきているように感じる。

 美術館に働いている立場で疑問に感じるのは、これほど大事な「表現の自由」について、大学の学芸員養成課程で必須の事項として学ぶこともなければ、どのような行為が憲法の禁止する検閲に当たるのかといった現場での共通理解もないことだ。
 国や自治体の文化事業が盛んに行われ、予算の決定や助成金を通じて政治の関与する部分も大きくなっている。
 文化行政や文化施設における「表現の自由」のためにどのような努力が求められるのか、課題を整理して考えるべきときにある。

 国や自治体が文化事業を進める過程で、体制に批判的な文化を排除していけば、それは公権力による文化的な誘導、もっと言えば文化統制にすらつながる。
 「表現の自由」という当たり前のことが当たり前でなくなっているだけに、地方自治体や公立文化施設は、住民の「表現の自由」を守る立場にしっかり立つことが求められている。

『子どもと教科書全国ネット21ニュース 142号』(2022.2)