《つどいの樹 随想 連載⑦》
◆ 第五福竜丸は、核のない未来に向かって航海中です
黒田貴子(中学校講師)
昨年3月20日、友人と第五福竜丸展示館を訪ねました。『ともに学ぶ人間の歴史ブックレットNo.9』の取材のためでした。
都内見学などで何度も生徒たちと訪ねた懐かしい展示館です。
友人に、元乗組員の大石又七さんがどんなに強くて優しい方だったかを一生懸命話していた時、大石さんはすでにこの世を去られていたのでした(大石さんは3月7日に亡くなられ、そのことが公表されたのは21日のことでした)。
大きな悲しみの中から、ブックレットは大石さんのことを軸にして書こうと決めました。
◆ 第五福竜丸事件の不条理
1954年3月1日午前6時45分、第五福竜丸に黄色い光が差し込みました。海底から突き上げてくるような轟音。みぞれまじりの白い粉が降り続け、乗組員たちは頭痛、吐き気、めまいなどに苦しみ、まもなく髪が抜け始めます。
2週間後、焼津に着いた大石さんたちは急性放射能症と診断され入院。
9月23日に久保山愛吉さんが亡くなります。
医師団は、死因は放射線被ばくによると発表しましたが、アメリカは水爆実験との関係を認めませんでした。
第五福竜丸の乗組員にはアメリカからお金が支払われました。これは「賠償金」ではなく「見舞金」であり、この先何が起きても一切補償はしないと日米の政府間で確認されました。
第五福竜丸以外の船も被ばくし、積んできたマグロは大量に廃棄されましたが、数多くの被災船の調査は打ち切られてしまいます。
30年後、高知県の幡多ゼミナールの高校生たちによって、1423隻もの漁船の被災があきらかにされました。
◆ 大石さんが語り始めた
大石さんは焼津を離れ東京に出て、事件のことは忘れようとしていました。その大石さんに和光中学校の生徒たちからお話を伺いたいと電話がありました。
しぶしぶ展示館に行き、6人の生徒たちを案内した大石さんは、その中の目の見えない少女のことが気に掛かります。
あの子は福竜丸の様子が分かっただろうかと考えた大石さんは、模型船を作って和光中を訪ね歓迎されます。
この頃から大石さんは、自分が語らなければ第五福竜丸事件は忘れられてしまう、働き盛りで肝臓癌などで次々と亡くなっていった仲間たちのためにも、と語りはじめ、実に700回以上もの講演をされました。
大石さんは、核実験場にされ、豊かだった島の生活と健康・いのちを奪われたマーシャル諸島の人たちと交流します。
凧を持って行ってマーシャルの子どもたちに凧揚げを教え、模型船を贈り、事件当時の村長のジョン・アイジャインさんと語り合いました。
昨年の3・1ビキニデーに、大石さんは「第五福竜丸事件は、遠い過去に終わったことではなく、未来の命に関わるんです。忘れてはいけない事件なのです」というメッセージを送りました。
この事件は、核兵器禁止条約にも繋がっています。
展示館の学芸員で、大石さんに寄り添ってこられた市田真理さんは大石さんの言葉を伝え続け、お話しの最後にこう仰います。
「第五福竜丸は、核のない未来に向かって航海中です」。
「子どもと学ぶ歴史教科書の会」会報『つどいの樹 第7号』(2022年3月1日)