大阪放火事件で「容疑者」にされた男性にも人権がある
  勧善懲悪報道を止め、事件から社会が学ぶ報道を
  犠牲になった院長の父「取材やめて」訴えを黙殺
 「普遍的価値」無視の犯罪報道の大転換を

 

 「創」2月号参照
  「メディア改革」連載第87回
  

 浅野健一(アカデミックジャーナリスト)

◎ 新年を迎えて早くも10日経った。
 私の新年メッセージは、ブログ「浅野健一のメディア批評」に載せているので、読んでほしい。
 今年こそ、人権と民主主義で前進したいと願っている。

http://blog.livedoor.jp/asano_kenichi/archives/28314092.html

◎ 昨年12月17日、大阪市北区の雑居ビルにある「西梅田こころとからだのクリニック」(西沢弘太郎院長)で火災が発生、25人が死亡する惨事があった。
 大阪府警が18日未明、放火殺人の「実行犯」と断定した。

◎ キシャクラブ(日本にしかない「記者クラブ」は海外にあるpress clubと混同されないようkisha clubと英訳される)メディアは男性を「◇◇◆◆容疑者(61)」(記事では実名)と呼称し、顔写真や防犯カメラ映像を晒した。
 男性は昨年12月30日、入院中の病院で死亡した。府警が府警記者クラブに広報(公表ではなく記者クラブ加盟社だけへの便宜供与)した。
 この事件で死亡者は26人になったが、キシャクラブメディアは、犠牲者の25人には憐れみと同情、「容疑者」にされていた男性には強い憎しみが感じられる。

 「罪を憎んで人を憎まず」「水に落ちたものに石を投げるな」「善人なほもって往生をとぐ、いはんや悪人をや」。
 日本のメディアは、亡くなった人の非難は避ける傾向にあるが、犯罪報道ではこうした格言は通用しない。

◎ 日本では瓦版の時代からマスメディアが公開の裁判の結果を待たず、被疑者・被告人に実名報道で社会的制裁(私刑、リンチ)を加えている。
 大阪放火事件では、男性を「悪」として懲らしめ、西沢院長ら犠牲者を「善」として美化する典型的な勧善懲悪型報道だった。

◎ 男性の死を伝えるメディアは <死亡により、動機の解明は困難となる見通し><遺族の代理人の奥村昌裕弁護士は取材に対し、「刑にも服さず、遺族への謝罪もないまま、自分の思いをわがままに叶え、亡くなった」と容疑者の身勝手さを批判したうえで、「遺族の『知る機会』がなくなったことは痛恨の極みだ」と語りました>(12月31日のTBS)
 <「これまで通り、動機を解明するために色々な捜査をする」。
◇◇容疑者の死亡を受け、府警捜査1課の幹部は30日夜、報道陣の取材に淡々と答えた。府警幹部の1人は朝日新聞の取材に、「動機を含めた事件の全容は推定するしかなくなった。今後、どうすればこうした事件を防げるか考えるためにも、(死亡は)残念」と話す>
(朝日新聞デジタル)
 <府警は、客観的な証拠の収集で動機などの解明を目指すとともに、「◇◇容疑者を現住建造物等放火と殺人の疑いで書類送検する方針
(毎日新聞)
 朝日新聞は<死亡により、刑事責任の追及はできなくなった。府警による事情聴取は実現せず、事件の解明が困難になる恐れがある。
府警は今後、客観的な証拠を積み上げ、容疑者死亡のまま書類送検する方針だ>と伝えた。
 
「実名原則」の報道各社はなぜ「府警幹部」などと仮名にするのだろうか。

◎ この事件では、大阪府警は男性の逮捕状を請求していなかったが、12月19日未明、府警記者クラブ加盟各社に男性の名前を広報した。冨山浩次捜査一課長は「被害者、ご遺族が被疑者の早期特定を望んでいる。
事案の重大性に鑑みた」と異例の対応の理由を説明した。

 日本の報道界は、捜査当局が逮捕したと記者クラブで広報した後に実名報道するという原則を持っている。報道各社が一斉に男性を実名報道したのは異例だ。
 府警はこの事件で、死亡した25人の身元が判明したとして、12月18日から2?日にかけ4回に分けて、府警記者クラブに対し、氏名、住所(市、区まで)、年齢を広報した。

 NHKと主要紙は25人を実名報道したが、一部のテレビは仮名報道した。実名を報じたメディアもデジタル版では、西沢院長以外は住所(市、区まで)と年代、性別だけで仮名だった。
 2019年7月の京アニ放火事件では、京都府警は犠牲者36人の遺族に「実名報道」の可否を確認して、実名報道を拒否した22人を除く14人の実名を広報。40日後に全員の氏名を広報したが、22人が実名報道を拒んでいると文書で報道各社に通知した。

◎ 私は12月21日、府警に、1.府警がクラブで広報した報道資料の開示を、2.京アニ事件で京都府警が行ったような遺族に実名報道の可否を確認する作業をしたか-などを聞いた。
 府警の木田勝広報課長は28日、「捜査一課長に確認したが、回答は差し控えるということだった」と電話で返答した。

 この事件では、犠牲者(仮名)の友人らのコメントは伝えられたが、西沢院長の父親以外の遺族はメディアに出ていない。
 おそらく遺族全員が実名報道と取材を拒んでいるのだと思う。

 同志社大学で20年間教授をした私の元ゼミ生の中に、大阪府警クラブに所属する大手メディア記者が複数いたので、府警が遺族に実名広報・実名報道についてどういう措置をとっているか聞いたが、返事はなかった。大学で人権とメディアを学んだ意味がない。

◎ 共同通信の沢井俊光編集局長(常務理事を兼任)が書いた「社外秘」の「編集週報」(12月25日)で、犠牲者の遺族が府警を通じて、「匿名(報道)を希望している」ことが分かった。キシャクラブメディアは遺族の意向を踏みにじって実名報道したのだ。
 沢井局長は<いたたまれぬ年の瀬>という題でこう書いている。
 <府警は今回、「遺族は匿名を希望している」と付言しながら、身元が確認された被害者の実名を順次発表している><被害者を匿名にする理由はなく、実名発表を求め続けた報道機関側からすれば、今回の大阪府警の対応は至極当然である>

◎ この編集週報に「社外秘」とあるのは、共同通信という報道機関の前近代性を示している。編集週報は2千数百人に上る共同通信と関連会社の全社員に配布され、共同通信加盟社の編集関係者に郵送されている。活字になった文章を秘密にできるはずがない。
 今時、マスメディアが内部だけでメディアの在り方を議論する時代ではない。

◎ この事件では、西沢院長の父が12月21日、心境をつづったコメントを府警を通じて報道各社に出した。
父親はコメントの最後に「同じ悲しみの中にある全てのご遺族の方々や関係者への取材はお控えいただけますよう切にお願い申し上げます」と報道各社への要望を記した
 新聞・テレビはこのコメントをほとんど報じていない。


◎ 「創」2月号と「救援」(救援連絡センター)1月号に記事を書いたので参照してほしいが、この事件では精神医療の在り方も問われた。
 10数年前から都会の駅前に次々と開業した「心療内科」」「心のクリニック」の実態や、事件関与の男性がどういう精神理療を受けてきたのかなども解明されなければならない。
 事件の加害者を非難し、犠牲者に同情を寄せるだけの報道はジャーナリズムではない。