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NHKNEWS 2021年3月21日 6時34分
【各地の原発影響】女川原発のプールに落下物(21日午前5時)
東北電力によりますと、20日の地震で震度5強の揺れを観測した宮城県石巻市などにある女川原子力発電所では、3号機の最上階にある核燃料を保管するプールの中で、小さな落下物が1つ確認されるなどしたということです。一方、原子力規制委員会や電力各社によりますと、宮城県、福島県、茨城県にある各原子力発電所やその周辺では、21日午前5時現在、放射線量を測定するモニタリングポストの値に変化はないということです。
東北電力 女川原発 落下物を確認 今後回収を進める
東北電力によりますと、20日の地震で震度5強の揺れを観測した宮城県石巻市などにある女川原子力発電所でパトロールを行ったところ、3号機の最上階にある核燃料を保管するプールの中で小さな落下物を1つ確認したということです。
また、同じフロアの床面にも似たものが1つ落ちていて、これらは点検用の足場の部材とみられるということです。
3号機のプールには1386体の核燃料が入っていますが、東北電力は、落下物が小さいことから核燃料への影響はないと考えているとしています。
一方、このプールには、先月13日の地震でも点検用の足場からボルトなどが落下していましたが、昨夜の地震のあと、このうちの1つがプール内で確認できなくなったということです。
東北電力は、今後、プール内に水中カメラを入れて詳しい点検を行うとともに落下物の回収を進めるとしています。
このほか、20日の地震によって一部、通路の天井のガラスにひびが入るなど、軽微な被害が確認されましたが、きょう午前4時現在、安全上問題がある被害はないということです。
原発周辺の放射線量を測定するモニタリングポストの値にも変化はないということです。
東京電力 福島第一原発 21日朝から詳細な調査
福島第一原子力発電所がある福島県大熊町と双葉町では昨夜の地震で震度5弱の揺れを観測しました。
東京電力によりますと、21日午前2時現在、福島第一原発の1号機から3号機では、溶け落ちた核燃料がある原子炉や原子炉をおさめる格納容器への注水を継続していて、格納容器内部の温度や水位、それに圧力に大きな変化はないということです。
東京電力は、引き続き、状況を監視しています。
また、原子炉建屋の最上階にあり、核燃料が残されている使用済み燃料プールの冷却設備も通常どおり動いているということです。
敷地内にある放射線量を測定するモニタリングポストの値や、空気中の放射性物質の量を測るダストモニタの値にも異常はないということです。
東京電力は、汚染水を処理したあとの水をためている多数のタンクについて、午前2時現在、漏れなどは確認されていないとしています。
タンクにずれがないかや、タンクどうしをつなぐ配管に変化がないかなどの詳細な調査については、21日始めるとしています。
先月13日の地震の際は、原子炉建屋にある格納容器内部の水位の低下やタンクにずれが認められるなどの影響がありました。
また、このとき、故障したままでデータを取れなかった3号機の地震計は、19日から新たに運用が開始されていて、今回の地震では正常に作動したということで、東京電力は今後、データを評価していくとしています。
茨城 東海第二原発と再処理施設など 異常は報告されず
このほか、▽福島県にある、廃炉が決まっていて運転をしていない東京電力の福島第二原発、▽茨城県東海村にある日本原子力発電の運転を停止している東海第二原発、▽同じく東海村にある日本原子力研究開発機構の高レベル放射性廃液を保管している再処理施設などの原子力関連施設では、これまでのところいずれも異常は報告されていないということです。
原子力規制委員会や電力各社によりますと、午前5時現在、いずれの原発などの周辺で放射線量を測定するモニタリングポストの値に変化はないということです。
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日下さん、みなさん、昨夜の地震、怖かったですね。
首都圏でも大きく長く揺れ続け、10年前の記憶がよみがえりました。
女川原発は廃炉にするしかありません。
日下さんとみなさんのご無事を祈り、一日も早い女川原発廃炉をめざし、
このブログ訪問者のみなさんに感謝し、ブログ引越前の再掲します。
阿部宗悦さんの死を悼む
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- 女川原発も危ない!
在りし日の阿部宗悦さん(左側)
日下郁郎さん(中央)と小屋取(こやどり)浜から女川原発を監視する
(右側)後藤政志さん:東北電力女川原子力発電所3号機の設計者
2012年3月27日 写真:垣内つね子
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阿部宗悦さんの死を悼む
日下郁郎 (くさか いくお。 原子力発電を考える石巻市民の会)
先月(2012年7月7日)、阿部宗悦さんが亡くなりました。86歳でした。
津波被災による家の喪失、その後転居を重ね女川第一小校庭に建てられた仮設住宅に入るまでの労苦(そのようななかでもフクシマ原発事故後各地で開かれた反原発集会に参加しつづけました)、狭い仮設住宅での慣れない暮らし、突然奥さんを亡くした心労、重ねての病・・・。昭和の時代全体と平成の時代を生き抜いてきた身とはいえ、大震災後背負ったものが余りに重すぎたのでしょう。
石巻から女川までの山沿いの道の通行が可能になったことを知り自転車で女川町を目指したのは、大震災から3日経った3月14日。鷲神(わしのかみ)の宗悦さんの家は、津波に押し流され跡形もありませんでした。鷲神ばかりか女川町の中心部である街場(まちば)全体が、見るも無残な廃墟と化していました。鉄筋コンクリートのビルがいくつもゴロリと横倒しに倒れ、津波が入り込んですっかり壊れた3階建てのビルの屋上にはひっくり返った自家用車が乗っていました。買い物中の客が何人も津波に呑まれ亡くなったという「おんまえ屋」の店員の1人は―あとで畳屋をしているそのお兄さんから聞いたことですが―数キロも離れた女川原発近くの塚浜まで流され、そこで翌朝漁船に助けあげられたということです。避難所になっている(電源三法交付金で建てられた)総合体育館に行き、入り口で避難者名簿を調べても阿部宗悦の名前はありませんでした。その場にいた知り合いの女川町議に教えられ、はじめて宗悦さん一家が無事であることを知りました。
塚浜地内にある小屋取(こやどり)浜からは女川原発がまぢかに望めます。今年3月26日、女川原発に最も近いこの浜で、たまたま宗悦さんに出会いました。これが、生前の宗悦さんに私が会った最後の時となりました。宗悦さんは、前年12月の女川町議選に脱原発を掲げて立候補し見事当選を果たした娘(一人っ子)の美紀子さんとともに、茨城県東海村村議の相沢一正さんらに、女川原発の案内をしているところでした。
この3月、心臓が弱って1週間ほど入院したといいます。前月初めには突然、奥さんの孝子さんを亡くしていました。美紀子さんによれば、廻船問屋を始めたのは二人が結婚後のことだといいます。二人は結婚後の全ての苦楽を共にし、支え合ってきたのでしょう。このときほどよわよわしい宗悦さんの姿を目にしたのは、はじめてのことでした。
そうではあっても、その3ヶ月半後の訃報は、私にとっては突然のものでした。
7月10日、女川町浦宿の照源寺で美紀子さんを喪主とした葬儀が、大勢の人々の参加を得て行われました。
1926年(大正15年)3月1日女川町竹の浦で生を受けたといいますから、昭和時代の全体と平成の23年半を生き抜いた一生でした。
女川原発建設差止訴訟弁護団の鈴木宏一弁護士が、弔辞を読みました。最後の方は、嗚咽を抑えながらの弔辞となりました。
「熾烈を極めた女川町漁協の漁業権放棄をめぐる漁協の内外における闘争」は、「東北電力の金にものをいわせた札束攻撃と、国、宮城県、女川町当局、警察権力、一体となった攻撃により、遂に1978年8月、敗北した」
「1968年の東北電力の女川原発建設計画発表以降の45年間全てが反原発闘争にささげられた生涯だった」
こんな内容の鈴木さんらしい暖かい思いのこもった弔辞に、堂内は静まり返りました。
私が宗悦さんと初めて会ったのは、この女川漁協の漁業権放棄決議の翌年、スリーマイル島原発事故の起きた1979年の夏ことでした。(ほとんどの地域が20キロ圏内に入る石巻市も女川原発の地元だと考え、私が「原子力発電を考える石巻市民の会」をつくって反原発運動に取り組み始めたのは、このあと間もなくのことです)。そのとき抱いて連れて行った赤ん坊(長男)の母親が女川原発設置反対(女川・雄勝・牡鹿)三町既成同盟会・副会長の牡鹿町前網の鈴木武雄の娘(長女)だと知って、宗悦さんはそれまで会ったことも聞いたこともない私に心を開いたようでした。
当初私が持った宗悦さんや仲間の漁民・町民たちについての印象は、交渉などで行政当局者や東北電力社員を大声を上げて罵る、なんて非礼な人たちなのだろう、というものでした(当時の女川の状況を考えれば宗悦さんや漁民たちの憤りも無理はなかったと今は思います)。その頃一緒に交渉に臨んだとき、女川の人たちと同類でないことを示すために、私は、初めと終わりに当局者などに丁寧に挨拶するのが常でした。
1984年の前半、宗悦さん一家(私の記憶では、美紀子さんの夫の故・康則さんも1979年の秋から女川に住むようになった)は運転開始を阻止しようと、町議選(宗悦さん)・町長選(康則さん)と連続して必死に選挙運動に取り組みました。
隣接する石巻市の私たちもそれに連動して、国が防災対策範囲とした原発の10キロ圏内の石巻市荻の浜地区で、1号機稼動反対・2号機増設反対の署名運動に取り組むなどしました。反対運動の強かった雄勝町大須に宗悦さんと一緒に出かけ、1号機稼動反対・2号機増設反対を訴えたのもこの年前半のことでした。
女川町や隣接市町でのこれらの活動も空しく、その年6月ついに女川1号機の運転が開始されてしまいました。この時の無念さは、今も胸に焼き付いています。
原子力発電を考える石巻市民の会は、女川の宗悦さんたちとは全く独立にできた反原発グループです。ですが、石巻市民の会の私と広瀬昌三さん(高校教師)が女川原発差止訴訟原告団(阿部宗悦団長、阿部康則事務局長)に加わってからは、康則さんが病気で亡くなる前まで、協力してさまざまな運動に取り組みました。そんななか、宗悦さんと一番意見が分かれたのは、原子力防災計画や原子力防災訓練をめぐってでした。私たちは、県や市町の原子力防災計画や防災訓練についても(その内容を充実させようと)力を入れて取り組んできましたが、宗悦さんたちはこれには批判的でした。私は、事故が起きたときにも子どもや妊産婦をはじめとした住民の被曝を少なくできるように、稼動を許した行政当局に事前に備えをさせておくべきだ、との考えでした(とはいえ、女川の初期や「最盛期」の運動については知らないことが多いだけに、これ以上私が女川の運動についてあれこれ言うのは慎みたいと思います)。
今、石巻での自分たちの運動と併せ振り返ってみて、宗悦さんは女川の仲間たち(平塚伝さん、志村孝治さん、阿部貞男さん、小松由勝さんら町民・漁民と結束し、訴訟支援連絡会議(渡会正蔵代表、事務局・清水内科外科病院)をはじめとした宮城県内外の支援も得て、よく反原発運動を貫いてきたものだ、と思わずにいられません。
今後、女川町議を継いだ美紀子さんとともに、女川原発の立地市町から引き続き声をあげつづけ、その声をつないでさらに大きく拡げ、宮城県内外の多くの人々と共に、女川原発の運転再開を止め女川原発を廃炉に追い込みたいものだ、と思っているところです(2012年8月記)。
「原子力発電を考える石巻市民の会」(近藤武文代表)は、
東北電力の女川原子力発電所が立地している宮城県石巻市で、
1979年より原発問題に取り組んでいる市民団体です。
http://ameblo.jp/shiminnokai/entry-11360812464.html