◆ 社会を壊す自己責任論 (『月刊 救援』)

前田 朗(東京造形大学)


 ◆ 菅の自助論

 安倍の突然の辞任を受けて政権についた菅義偉首相は独自の「自助論」を展開する。
 「自助・共助・公助。この国づくりを行っていきたいと思います」。
 「まず自分でできることは自分でやる、自分でできなくなったらまずは家族とかあるいは地域で支えてもらう、そしてそれでもダメであればそれは必ず国が責任を持って守ってくれる。そうした信頼のある国づくりというものを行っていきたいと思います」。
 マスコミは菅の主張をそのまま横流しした。

 権力とマスコミが連携して「自助・共助・公助」の浸透が図られた。
 周知のように「自助・共助・公助」が乱発されたのは阪神淡路大震災からである。


 自助とは災害に際して自分と家族は自分たち自身で守ること。
 共助は近所や地域の人たちと助け合うこと。
 公助は国や地方自治体、消防、警察などによる公的な支援を意味する。
 防災用語としての自助・共助・公助にはそれなりの根拠がある。
 まずは自分と家族を、余裕があれば近所の人たちを助け、公助を待つ。防災においては自然な話である。

 菅はこれを国づくりに転用する。そこでは言葉の意味合いに変化が生じる
 国家政策や社会政策の文脈では「自分のことは自分で守りなさい。それができなければ地域コミュニティーで助け合いなさい。それもできなければ国が最低限は助けましょう」という意味になる。
 自分で自分を守れなければ切り捨てられても仕方がない。
 国は最低限の仕事しかしないから、自分たちでやりなさいという宣言である。
 新自由主義に典型的な棄民政策の正当化であり、権力に群がる特権層が利権を収奪する抑圧構造の反映である。
 利権集団の一翼を担うマスコミが自助論を託宣する。

 菅の独創ではない。
 二〇一〇年の自民党綱領「2.我が党の政策の基本的考えは次による」に「自助自立する個人を尊重し、その条件を整えるとともに、共助・公助する仕組を充実する」と明記されている。
 「自助自立する個人を尊重する」のであって、自助自立できない個人は排除され、無視される切り捨ての論理が明確に打ち出されている。
 自民党綱領「3.我が党は誇りと活力ある日本像を目指す」には「家族、地域社会、国への帰属意識を持ち、自立し、共助する国民」とある。
 自立してはじめて共助の土俵に上ることが許される。
 自助自立しない市民は、土俵の下に放置される。

 菅は、行政権力のトップに立つ首相として、市民に対して行政サービスを最小化すると宣言した。防災のみならず、教育、衛生・医療、社会保障、福祉・介護の諸領域における自助努力を要請する宣言である。
 菅の独創でも自民党の独創でもない。資本主義の論理であり、とりわけ新自由主義の公理である。
 夜警国家、小さな政府、規制緩和等々のスローガンは戯画的に何度でも繰り返される。


 ◆ 自己責任という暴力

 齋藤雅俊『自己責任という暴力ーコロナ禍にみる日本という国の怖さ』(未来社)は、TBS報道局社会部デスク、取材センター長、映像センター長、編集主幹等を歴任した著者による「自己責任」論を通じた国家と社会の検証である。

 齋藤は、コロナ禍において感染者への攻撃が家族や所属集団にまで向けられたこと、「自粛警察」のような「正義感」と同調圧力が社会に蔓延したことを取り上げ、恐ろしい人権侵害が生じていると見る。
 「要請」や「調査」の名で、「市井の人々のいびつな正義感や陰湿な相互監視、逸脱を許さない同調圧力といった、法に拠らない暗黙の掟が広く共有されている証左でもあるからだ」という。

 齋藤によれば二〇〇四年、イラクで日本の三人の若者が武装勢力に拘束された事件で、「三人の若者は無事解放されたが、帰国した彼らを待ち受けていたのは自己責任だと責め立てるバッシングの嵐だった」。
 自己責任論を利用したのが為政者たちであり、これにより「自衛隊の海外派兵という重要な議論を封殺してしまった」。
 「要請」という名の「私刑」が横行する国で、「法律は閣議決定による解釈変更がまかり通り、為政者の責任も個人の自己責任もその範囲や意味するところは曖昧模糊としている」。

 齋藤は、日本社会にはびこる集団責任の論理が、個人を超えて家族や企業に及び、暴力的な機能を果たすとともに、その論理が為政者や行政権力には及ぼない奇妙な日本的「自己責任」の様相を点検する。
 かつての東京裁判における天皇及び軍部・官僚の「無責任の体系」が想起される。
 上に向かっては無限大の寛容を持ち出して昭和天皇を免責し、軍部・官僚の免責を図る。
 同じ論理が下に向かうと無限大の責任追及となる。
 不祥事が起きると、学校も企業も法人も、果てしのない責任追及に追い回される。

 イラク人質事件で噴出した自己責任論はその純粋培養のようなむき出しの暴力であった。
 諸外国では称賛の対象とされた若者を、日本の国家と社会は冷酷にも糾弾し続けた。
 「日本はイラクより怖い国」という斎藤は自己責任論を読み直し、同じ空気が蔓延する現在の日本を問う。
 「自己責任が強調されるとき、その背後に権力側が担うべき責任の矮小化が潜んでいないか」。

『救援 618号』(2020年10月10日)

 

 

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