◆ 本質隠しが進む時代の「日の丸・君が代」と天皇制 (リベルテ55号から)
◆ 巧妙な本質隠し
「“記者クラブ美しき調和旨とせよ”ってことか」と、皮肉りたくなる新元号。お祭り騒ぎを批判する論者の矛先は、目立ちたがり屋の総理と横並びのマスコミ、簡単に乗せられる大衆に向かい、大元にある天皇制には決して向かわない。
新聞は「元号は皇帝が時を支配するとした中国の思想に倣ったもの」と解説するが、その一方で、目本の伝統と位置づけて、代替わりに国民が振り回され不便を忍ばなければならない不合理には目を瞑る。
元号だけでなく国旗国歌も、本質がどんどん見えにくくされている。中学校学習指導要領(公民)の内容の取扱いには「『国家間の相互の主権の尊重と協力』との関連で、国旗及び国歌の意義並びにそれらを相互に尊重することが国際的な儀礼であることの理解を通して、それらを尊重する態度を養うように配慮すること」とある。
教科書は主権・独立・歴史や文化・国民の理想等の言葉を並べ、「君が代」は日本国の繁栄と平和を願う歌だと説明する。
日本文教出版の道徳(小6)は、前回の東京オリンピツク大会でアイルランド国旗の緑色を何度も染め直し、開会10日前にようやく完成する「プロジェクトX」もどきの話を載せている。担当していた大学生吹浦さんはアイルランドの歴史や風土を学び直し「昔から自然の豊かなこの地に暮らす人たちの伝統やほこりを表・す色なんだ」と気づき、やや青みがかつた緑に染めて、ようやく「この緑こそ、私たちの国の色です」という返事を貰う。
育鵬社や自由社のような極端な教科書でなくても、国旗国歌を素直に受容する子どもたちが育っていくはずだ。
◆ 国民こぞって敬愛!?
私たちが起立斉唱を拒む理由は様々だが、侵略戦争と天皇制に対する痛恨の思いは、多くの原告・支援者に共通している。しかし、これも年々理解されにくくなっているのではないか。
小中学校の教科書で、戦争と「日の丸」が結びつく教材を捜すと、三国同盟締結・学徒出陣壮行会・集団疎開児童歓迎の場面に「日の丸」があるが、小さなモノクロ写真で印象は薄い。
学び舎の歴史教科書で、「江華島付近の砲台を攻撃する日本軍」の絵の中の「日の丸」、愛国いろはがるたの「キミガヨウタフアサノガクカウ」という文宇と校舎に揚がった「日の丸」の絵をようやく見つけた。
小学校学習指導要領解説(6年社会)は「…天皇が国民に敬愛されてきたことを理解できるようにすることも大切である。…理解と敬愛の念を深めるようにする必要がある」と述べている。また、退位等の特例法(2017年)では、国民は天皇を深く敬愛し、天皇の気持ちを理解し共感していることになっている。国民の内心を決めつけて法律に書き込んでしまうのだから恐ろしい。
「象徴のあり方を天皇が考えて変えるなんて、それって解釈改憲でしょ!」と、前年8月のビデオ・メッセージに憤慨した私は、もはや国民ではないのか。
NHKが5年ごとに行う日本本人の意識調査でも私は居場所がない。
昭和天皇の晩年には無関心が40%台後半で一番多く、好感は20%台前半だったが、2000年代には無関心が30%台になり、昨年は22%に減る。逆に好感や尊敬が増えて、昨年は尊敬(41%)が好感(36%)を抜いている。
反感はずっと2%だったが1998年から1%、昨年は遂に0%になった。
◆ 「平成流」の受益者は誰か
膝をついて被災者に話しかける「平成流」がもてはやされ、小6社会の教科書では全社が写真を載せている。昭和の戦争・沖縄・震災を繰り返し語る姿勢に、安倍政権への批判を読み取ろうとする人もいる。しかし、天皇の政治的発言に甘くなってしまうのは危険だ。政権に対抗的な内容だからといって憲法の縛りを緩めたら、政権寄りの発言も止めることができなくなる。
しかし、報道は礼賛一色。天皇と沖縄の関係を報じる時、1975年の火炎瓶投擲の映像は使っても、米軍による長期占領を希望した昭和天皇の沖縄メッセージ(1947年)には触れない。これでは、「沖縄に心を寄せる」と言わなければならない天皇側の事情は伝わらない。
敗戦による天皇制の危機を体験し、皇太子として再建に尽力してきた明仁天皇は、象徴天皇制を国民に受容させ永続させることを最大の使命と考えているはずだ。そのため、象徴天皇こそが近世まで続いた天皇本来の姿だと強調し、伝統や文化を装うことで政治的な議論から身をかわした。
公的行為を拡大するのは「受動的・形式的な象徴では国民から忘れられてしまう。能動的・積極的に国民を統合して存在感を高めなければ、天皇制の将来が危うい」と焦っているからだろう。「平成流」の一番の受益者は他ならぬ天皇と天皇制だ。
◆ 代替わりを好機にできるか
憲法学者の蟻川恒正氏は、2017年4月20日の朝日新聞「憲法季評」で、「やはり真実に生きるということができる社会をみんなで作っていきたいものだと思いました」「今後の日本が、自分が正しくあることができる社会になっていく、そうなればと思っています」という天皇の言葉(2013年10月、熊本県水俣市で水俣病患者から話しを聞いた後の発言)を取り上げた。
題して「真実に生きる自らの言葉と歩む天皇」。天皇は、あるべき自分の生き方に忠実に生きることを全ての個人に励まし、それができる社会へと向かう努力を自他に求めたというのだ。
しかし待ってほしい。天皇は、個人の尊厳を土台とする日本国憲法に、日本の支配層とGHQが同床異夢の合作で無理にねじ込んだ特権的身分ではないか。神武から125代という虚構の上に立ち、昭和天皇を平和主義者と言うことしかできない。仮に1人の人間としては誠実で善良であったとしても、天皇という存在は「真実に生きる」「正しくある」ことから最も遠い所にあるのではないか。皇室制度の中にいる限り、退位してもそれは変わらない。
新天皇皇后は「偉大な」父や姑と比較される損な立場だ。NHKの日本人の意識調査は4年後だが、尊敬がこのまま増えていくとは思えない。経済格差や社会の分断がさらに進めば、天皇による「癒し」では治まらないし、国籍や宗教、家族観などが多様化すれば、宮中祭祀を司る一族の長が、日本国と日本国民統合の象徴であることの不思議さが際立つ。跡継ぎ問題も含めて、天皇制は再び危機を迎えることが予想される。
在位30年を祝う記念式典で、天皇は象徴の務めを果たすことが出来たのは「その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、…この国の持つ民度のお陰」と述べた。天皇の鶴の一声で特例法が成立するのだから、天皇にとっては丁度良い民度で、今後の危機も、国民の感情を動員して乗り切れると考えているのだろう。
原武史氏は近著「平成の終焉」で坂口安吾の「天皇陛下にさゝぐる言葉」を引用している。71年前の作品だが、安吾が思い描く「人間の真の復興」は実現していないし、今回の天皇報道の洪水で、益々遠のく心配さえある。しかし敢えて楽天的に言えば、天皇への関心が高い今こそ議論を始める好機だ。明仁天皇の後継者たちが抱えている問題は、天皇制の非人間性や不合理に起因するのだから、議論の材料は豊富だ。
一方、国旗国歌は話題になること自体が少ない。場面に応じて違う顔を見せるため、私たちが何と闘っているのか理解されないこともある。見えにくい相手をどう可視化するかは、切実な課題だ。そこで再び敢えて楽天的に言えば、代替わりを好機と考えることはできないだろうか。
天皇制は「実質のないところに架空な威厳をあみだ」す(坂口安吾前掲作品)仕掛けに支えられている。国旗国歌もその仕掛けの一つだということが、代替わりの中で見えやすくなるのではないか。
代替わりを好機にするというのは自らを励ますための大言壮語だが、人々の間に何か小さな「気づき」が生まれることは、本気で期待している。
『東京・教育の自由裁判をすすめる会ニュース(リベルテ) 55号』(2019年4月27日)
東京「君が代」裁判元原告 吉野典子
◆ 巧妙な本質隠し
「“記者クラブ美しき調和旨とせよ”ってことか」と、皮肉りたくなる新元号。お祭り騒ぎを批判する論者の矛先は、目立ちたがり屋の総理と横並びのマスコミ、簡単に乗せられる大衆に向かい、大元にある天皇制には決して向かわない。
新聞は「元号は皇帝が時を支配するとした中国の思想に倣ったもの」と解説するが、その一方で、目本の伝統と位置づけて、代替わりに国民が振り回され不便を忍ばなければならない不合理には目を瞑る。
元号だけでなく国旗国歌も、本質がどんどん見えにくくされている。中学校学習指導要領(公民)の内容の取扱いには「『国家間の相互の主権の尊重と協力』との関連で、国旗及び国歌の意義並びにそれらを相互に尊重することが国際的な儀礼であることの理解を通して、それらを尊重する態度を養うように配慮すること」とある。
教科書は主権・独立・歴史や文化・国民の理想等の言葉を並べ、「君が代」は日本国の繁栄と平和を願う歌だと説明する。
日本文教出版の道徳(小6)は、前回の東京オリンピツク大会でアイルランド国旗の緑色を何度も染め直し、開会10日前にようやく完成する「プロジェクトX」もどきの話を載せている。担当していた大学生吹浦さんはアイルランドの歴史や風土を学び直し「昔から自然の豊かなこの地に暮らす人たちの伝統やほこりを表・す色なんだ」と気づき、やや青みがかつた緑に染めて、ようやく「この緑こそ、私たちの国の色です」という返事を貰う。
育鵬社や自由社のような極端な教科書でなくても、国旗国歌を素直に受容する子どもたちが育っていくはずだ。
◆ 国民こぞって敬愛!?
私たちが起立斉唱を拒む理由は様々だが、侵略戦争と天皇制に対する痛恨の思いは、多くの原告・支援者に共通している。しかし、これも年々理解されにくくなっているのではないか。
小中学校の教科書で、戦争と「日の丸」が結びつく教材を捜すと、三国同盟締結・学徒出陣壮行会・集団疎開児童歓迎の場面に「日の丸」があるが、小さなモノクロ写真で印象は薄い。
学び舎の歴史教科書で、「江華島付近の砲台を攻撃する日本軍」の絵の中の「日の丸」、愛国いろはがるたの「キミガヨウタフアサノガクカウ」という文宇と校舎に揚がった「日の丸」の絵をようやく見つけた。
小学校学習指導要領解説(6年社会)は「…天皇が国民に敬愛されてきたことを理解できるようにすることも大切である。…理解と敬愛の念を深めるようにする必要がある」と述べている。また、退位等の特例法(2017年)では、国民は天皇を深く敬愛し、天皇の気持ちを理解し共感していることになっている。国民の内心を決めつけて法律に書き込んでしまうのだから恐ろしい。
「象徴のあり方を天皇が考えて変えるなんて、それって解釈改憲でしょ!」と、前年8月のビデオ・メッセージに憤慨した私は、もはや国民ではないのか。
NHKが5年ごとに行う日本本人の意識調査でも私は居場所がない。
昭和天皇の晩年には無関心が40%台後半で一番多く、好感は20%台前半だったが、2000年代には無関心が30%台になり、昨年は22%に減る。逆に好感や尊敬が増えて、昨年は尊敬(41%)が好感(36%)を抜いている。
反感はずっと2%だったが1998年から1%、昨年は遂に0%になった。
◆ 「平成流」の受益者は誰か
膝をついて被災者に話しかける「平成流」がもてはやされ、小6社会の教科書では全社が写真を載せている。昭和の戦争・沖縄・震災を繰り返し語る姿勢に、安倍政権への批判を読み取ろうとする人もいる。しかし、天皇の政治的発言に甘くなってしまうのは危険だ。政権に対抗的な内容だからといって憲法の縛りを緩めたら、政権寄りの発言も止めることができなくなる。
しかし、報道は礼賛一色。天皇と沖縄の関係を報じる時、1975年の火炎瓶投擲の映像は使っても、米軍による長期占領を希望した昭和天皇の沖縄メッセージ(1947年)には触れない。これでは、「沖縄に心を寄せる」と言わなければならない天皇側の事情は伝わらない。
敗戦による天皇制の危機を体験し、皇太子として再建に尽力してきた明仁天皇は、象徴天皇制を国民に受容させ永続させることを最大の使命と考えているはずだ。そのため、象徴天皇こそが近世まで続いた天皇本来の姿だと強調し、伝統や文化を装うことで政治的な議論から身をかわした。
公的行為を拡大するのは「受動的・形式的な象徴では国民から忘れられてしまう。能動的・積極的に国民を統合して存在感を高めなければ、天皇制の将来が危うい」と焦っているからだろう。「平成流」の一番の受益者は他ならぬ天皇と天皇制だ。
◆ 代替わりを好機にできるか
憲法学者の蟻川恒正氏は、2017年4月20日の朝日新聞「憲法季評」で、「やはり真実に生きるということができる社会をみんなで作っていきたいものだと思いました」「今後の日本が、自分が正しくあることができる社会になっていく、そうなればと思っています」という天皇の言葉(2013年10月、熊本県水俣市で水俣病患者から話しを聞いた後の発言)を取り上げた。
題して「真実に生きる自らの言葉と歩む天皇」。天皇は、あるべき自分の生き方に忠実に生きることを全ての個人に励まし、それができる社会へと向かう努力を自他に求めたというのだ。
しかし待ってほしい。天皇は、個人の尊厳を土台とする日本国憲法に、日本の支配層とGHQが同床異夢の合作で無理にねじ込んだ特権的身分ではないか。神武から125代という虚構の上に立ち、昭和天皇を平和主義者と言うことしかできない。仮に1人の人間としては誠実で善良であったとしても、天皇という存在は「真実に生きる」「正しくある」ことから最も遠い所にあるのではないか。皇室制度の中にいる限り、退位してもそれは変わらない。
新天皇皇后は「偉大な」父や姑と比較される損な立場だ。NHKの日本人の意識調査は4年後だが、尊敬がこのまま増えていくとは思えない。経済格差や社会の分断がさらに進めば、天皇による「癒し」では治まらないし、国籍や宗教、家族観などが多様化すれば、宮中祭祀を司る一族の長が、日本国と日本国民統合の象徴であることの不思議さが際立つ。跡継ぎ問題も含めて、天皇制は再び危機を迎えることが予想される。
在位30年を祝う記念式典で、天皇は象徴の務めを果たすことが出来たのは「その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、…この国の持つ民度のお陰」と述べた。天皇の鶴の一声で特例法が成立するのだから、天皇にとっては丁度良い民度で、今後の危機も、国民の感情を動員して乗り切れると考えているのだろう。
原武史氏は近著「平成の終焉」で坂口安吾の「天皇陛下にさゝぐる言葉」を引用している。71年前の作品だが、安吾が思い描く「人間の真の復興」は実現していないし、今回の天皇報道の洪水で、益々遠のく心配さえある。しかし敢えて楽天的に言えば、天皇への関心が高い今こそ議論を始める好機だ。明仁天皇の後継者たちが抱えている問題は、天皇制の非人間性や不合理に起因するのだから、議論の材料は豊富だ。
一方、国旗国歌は話題になること自体が少ない。場面に応じて違う顔を見せるため、私たちが何と闘っているのか理解されないこともある。見えにくい相手をどう可視化するかは、切実な課題だ。そこで再び敢えて楽天的に言えば、代替わりを好機と考えることはできないだろうか。
天皇制は「実質のないところに架空な威厳をあみだ」す(坂口安吾前掲作品)仕掛けに支えられている。国旗国歌もその仕掛けの一つだということが、代替わりの中で見えやすくなるのではないか。
代替わりを好機にするというのは自らを励ますための大言壮語だが、人々の間に何か小さな「気づき」が生まれることは、本気で期待している。
『東京・教育の自由裁判をすすめる会ニュース(リベルテ) 55号』(2019年4月27日)