◆ <情報>森本敏・元防衛大臣が「復帰前の沖縄は国連の信託統治領だった」と明言!
   皆さま     高嶋伸欣です


 1 今夜、偶然にBS放送「BS11 イレブン」の「報道インサイドOUT 辺野古基地移転の行方 沖縄新知事反対を主張」(討論?番組)をみていたところ、コメンテーターの一人、森本敏(さとし)拓殖大学総長(2012年8月の野田第4次改造内閣で11代目防衛大臣に就任)が、見過ごせない(聞き捨てにできない)失言をしていました。

 2 進行役の岩田公雄氏が、米軍専用基地の約70%が国土面積0.3%の沖縄に集中しているのは「やはり不自然」と提起したのを受けて、森本氏が沖縄と「本土」の米軍用地の違いを説明した時です。


 3 「『本土』の米軍基地は大半がもともと日本軍が使用していたもので、国有地の割合が高い。一方の沖縄は、復帰前はアメリカが国連の信託統治領として統治していて、軍事基地を朝鮮戦争やベトナム戦争などの後方基地として増やしたという経過がある」旨、淡々と述べていたのです。

 4 この沖縄に関する説明は、明らかに間違いです。講和条約発効(1952年4月28日)で米軍の軍事占領による統治権が消滅した後、1972年5月15日の「日本復帰」までの間、沖縄が国連の信託統治領であった日は1日もありません

 5 米国が主導して作った国際連合では、戦前の国際連盟の委任統治領制度が委任国に丸投げされて、事実上の植民地にされていた失敗の経験から、国際連合憲章に基づいた統治を義務付け、毎年の報告等で人権侵害等の事実が確認されると、統治権(施政権)を取り上げることになっていました。

 6 もし信託統治領であれば、基地拡張のための「銃剣とブルトーザーによる土地強奪」や「青信号で横断中の中学生を轢殺した米兵を無罪とする軍事法廷判決=1962年6月、軍用道路1号線(現国道58号線)の横断歩道を青信号で渡っていた中学生・国場秀夫君を、米兵が信号無視で轢殺。軍事裁判の判決は太陽の光の反射で信号が分からなかったための不可抗力による事故、として”無罪”)」など、数々の人権侵害事件は起きなかったはずです。

 7 講和条約で「本土」が独立(主権)を回復した後も、同条約3条によって、沖縄・奄美・小笠原などは事実上の米軍支配下で、国連憲章はもちろん米国や日本の憲法も適用されず、人々は無権利の「虫けら」状態に放置されていたのです。

 8 そうした軍事支配の継続は、日本政府の暗黙の了解の下で仕組まれたと言われています。日米両政府による仕掛けは、「サンフランシスコ講和条約」の第3条です。

 9 第3条は、前半部分で「沖縄・小笠原等を米国が統治する国連の信託統治領化に、条約調印国は賛成する」と明示しています。ただし、国連でその手続きがされるまで、空白期間が生じる時は、暫定的な措置が必要になるので、それまでは米国が施政権を行使できるものとする、との規定が後半部分として加えられています。

 10 この後半部分は、いかにも行き届いた規定のように見えます。けれどもこれこそ、ペテンの規定だったのでした。

 11 第①に、3条前半信託統治領化の手続きをいつまでにするかを明示していません。そこで米国は、事実上の軍事支配を好きな時まで継続できる権限を、この条約で入手したことになります。好き勝手に人権侵害もやり放題なのですから、米国は自分から国連に手続きをする気はありませんでした
 結局、米国は20年間この後半部部分を”活用”しました。
 1972年5月には、国連からではなく米国から、日本政府に「施政権」が返還されたのです。

 12 第②に、国連憲章では、独立国の本来の領土を一部分であってもその独立国の施政権を奪うことを禁じていて、そのことを国連創設者の米国が知らないはずはありませんから、第3条の前半部分は後半部分の規定を尤もらしく見せかけるカモフラージュに過ぎなかったのです。

 13 第③に、前半部分のような手続きをするとの規定を条約等で定める場合は、当該国がいつまでにその手続きに着手することと時期を明示するのが、国際条約等では、当然のこととされています。

 *最近の米朝首脳会談についても、非核化の時期を明示する合意文書を作成できなかったトランプ大統領の手腕が批判されています。
 このことや、上記②の点から、当時の日本政府(吉田政権)は、米国が3条の後半部分を最大限に「活用(悪用)」する意図だと見抜いていました。
 そこで、吉田政権以後の日本政府は、沖縄や「本土」さらには米国内など海外からも厳しい批判の声、「日本復帰」の声が高まるまで、米国政府に第3条の前半部分の手続きに着手するように催促したことが、一度もないのです。

 14 この第③の点から、瀬長亀次郎氏の「復帰・人権獲得(日本国憲法適用の実現)」闘争を恐れたのは米国政府・米軍だけでなく日本政府もであるはずです。

 15 TV番組・映画『米軍が最も恐れた男~その名は、カメジロー』は『米軍と日本政府が最も恐れた男~』とするべきだと、私は思っています。

 16 ちなみに講和条約締結の際、吉田政権は朝鮮戦争の後方基地を日本国内に多く置く必要に迫られている米国の足下を見透かして、日米対等の条約(基地の場所を具体的に明記、条約の期限を数年として再交渉ではさらに限定的にするなど)案を用意していたそうです。
 ところがそのことを知った昭和天皇が吉田首相を皇居に呼びつけ、上記の案を破棄して米軍が最大限に行動する自由を与えるように指示したので、自称「臣吉田」はその指示に従ったのでした。

 17 その結果が米軍最優先の「日米地位協定」「日米安保」と言うことになっているという訳です。

 *<参考文献>豊下楢彦著「昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫 G193 岩波書店 2008年

 18 なお、昭和天皇は吉田首相への指示とは別に、側近を通じてGHQ・マッカーサーに、講和条約の内容に関し、提案を伝えたことが現在では判明しています(「天皇メッセージ」事件)。
 その内容は、共産主義が日本へ波及して天皇制が廃止に追い込まれるのを防止するために、占領終了となる講和条約においては、沖縄を「本土」から切り離して半永久的に米国の支配下に置くようになることを望んでいる、というものです。
 この天皇の提案を具体化したのが、講和条約第3条です。

 19 本題に戻りますが、森本氏のいう「復帰前の沖縄は国連の信託統治領だった」という発言は、

 1)講和条約発効(1952年4月28日)から1972年5月15日の「日本復帰」までの日米両政府合意による沖縄への不当、違法・違憲行為に人々の関心が向くのを阻害するものです。

 2)1972年5月15日は、無権利状態に置かれた沖縄の人々が「日本国憲法の適用・人権獲得」という一種の市民革命を自力で成し遂げた日です。その沖縄県の人々だけが言える歴史的偉業の存在に気付くのを、森本発言は阻害しています。

 3)昭和天皇は、日本国憲法施行後に2度の違憲行為を強行し、日米地位協定が憲法よりも優越している現在の状況を生んだ元凶の一人であることに「本土」の人々が気づくのを阻害しています。

 20 ちなみに、安倍首相が靖国を参拝するという総裁選挙の公約を実行しないことで「裏切者」と保守派から厳しく迫られ、苦し紛れに民間団体任せだった4月28日の「主権回復記念式典」を政府主催で実行することにし、天皇・皇后も出席と華々しく打ち上げます。
 その直後に、官邸に抗議で飛び込んだのだ玉城デニー衆議院議員でした。

 21 「沖縄では4月29日は『屈辱の日』として受け継がれている。この微妙な時期に沖縄を怒らせるのか?」と迫られ、安倍首相はたちまち「式典」の規模を縮小。天皇・皇后の出席は今更取り消せず、中途半端な規模の式典のままとなったのでした(2013年4月28日)。

 22 同日、沖縄では本島・宮古・石垣(八重山)など各地で、政府式典に抗議する集会が開催されました。

 23 今回の知事選で、8万票の差を生んだデニー氏の知名度を高めるきっかけを作ったのは、『屈辱の日』を知らない歴史半可通の安倍晋三首相自身だったのです

 24 菅官房長官はデニー知事の面会要請を受け入れて、明日12日には会うそうです。半年もの間拒否し続けた翁長知事の時の手法とはうって変わった対応に、官邸の追い詰められた姿が読み取れます。
 どんなやり取りがされるか、森本発言を念頭に注目しています。

 また長くなりましたが ご参考までに

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