=東京「君が代」裁判=
◆ 4次訴訟高裁判決を受けて (リベルテ)
1 はじめに
2018年4月18日,東京高等裁判所第12民事部(杉原則彦裁判長)で東京「君が代」裁判4次訴訟の判決が言い渡されました。
結論は,戒告処分の取消及び損害賠償を求める一審原告らの控訴も,4回目・5回目の不起立に対する減給処分の取消を不服とする都の控訴も,いずれも棄却するというものでした。
一次訴訟についての2012年1月16日最高裁判決で,懲戒処分のうち「戒告」は裁量権の逸脱・濫用とまではいえないものの,「減給」以上の処分は相当性がなく社会観念上著しく妥当を欠き,裁量権の範囲を逸脱・濫用しており違法であるとの判断が示されて以降,都教委は3回目の不起立までを戒告とし4回目以降の不起立に対して減給処分とする取り扱いをしてきています。
今回の判決は,4回目・5回目の不起立に対する減給処分を「減給以上の処分の相当性を基礎づける具体的な事情は認められない」として取り消した原判決に対する都の控訴を棄却したものであり,不起立の回数が減給処分の相当性を基礎づける具体的な事情には当たらないとの判断を示したもので,回数のみを理由とした処分の加重を否定したものといってよいと思います。
一方で,国歌の起立斉唱の強制が違憲・違法であるとの一審原告ら教職員の主張については原判決を維持し,これを認めることはありませんでした。さらに,処分が取り消された一審原告ら教職員の精神的苦痛は慰謝されるとして賠償請求を棄却した原判決を維持しています。
2 事実認定の問題点
原判決は,減給以上の処分の取り消しを認めた結論はもちろん,その判断内容は2016年1月16日最高裁判決の多数意見の判断に沿ったものにとどまり,最高裁の結論に漫然と従った結論ありきの判断でした。
これに対して,一審原告らは控訴審においても,これまでの最高裁判決の多数意見の判断,結論に漫然と従って判断してはならないと訴えてきました。
特に,原判決は,「本件職務命令等が,国旗・国歌について一層正しい認識を持たせ,それらを尊重する態度を育てるなど国旗・国歌条項の趣旨を実現することに沿う正当なものであって,必要かつ合理的な範囲内の都教委及び校長の権限行使であった」(原判決92頁)などと、判示していますが,このような認定自体,本件通達やこれに基づく本件各職務命令を巡る諸事情を的確に把握することなく,都教委が描き出す欺瞞に満ちたストーリーに欺かれ,客観的事実経過に反する偏った事実認定となっていることを明らかにしてきました。
にもかかわらず,控訴審判決においても,学習指導要領について「地方公務員である1審原告らに対して法的拘束力が認められる法規としての性質を有する」(控訴審判決18頁)としたうえで「国旗国歌条項及びこれを含む学習指導要領に沿った式典の実施の指針を示し,生徒を教導する立場に在る教職員に対して慣例上の儀礼的所作としての起立斉唱行為を求める本件通達の目的は,いずれも合理的なものということができる」(控訴審判決16頁)と判断し,さらに「本件通達発出前においては,卒業式等において,会場に入場する教職員全員の起立斉唱行為を確保することができていなかったことが認められ」(控訴審判決17頁,19頁)と認定するなど,控訴審においても本件通達やこれに基づく本件各職務命令を巡る諸事情を的確に把握することなく判断がされています。
特に,通達発出の必要性を巡って「本件通達発出前において教職員の不起立があったか否か」,「その結果,卒業式等の円滑な進行の妨げとなる事実があったか」等は,いずれも争いのある事実であるにもかかわらず,証拠に基づかない事実認定がなされており弁論主義に反する判断であるといわざるを得ません。
控訴審判決も,文科省(文部省)や都教委側からの,日の丸・君が代実施についてどう考え,どう実施しようとしたかという一方的なスタンスにたって,法的判断(事実評価を含む)に有利な事実のみを恣意的に取り上げるという「先に結論ありき」の判断をしている点で,控訴審裁判所も「司法」の役割を果たしておらず,厳しい非難に値するというほかありません。
3 「儀式的行事における儀礼的所作」をめぐって
一審原告らは,国歌の起立斉唱行為について「儀式的行事における儀礼的所作」であって,個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものではないとする一連の最高裁判決について,儀式・儀礼はそれ自体宗教性と無縁ではなく,儀式・儀礼が強制されるとき個人の思想・良心・信仰と緊張関係を持つことを看過したものであることを論じ,さらに島薗進先生の意見書に基づいて最高裁判決の誤りを明らかにしてきました。
まず,儀式・儀礼は宗教の不可欠な要素の一つであって,固有の儀式・儀礼をもたない宗教を見出すことはできないのであるから,「儀式的行事における儀礼的所作」が宗教性と無縁であるとの認識自体が根本的に誤っていることを明らかにしてきました。
そのうえで,卒業式等における国歌の起立斉唱について「儀式的行事における儀礼的所作」であると捉えたとしても,政治性・宗教性が捨象された思想・良心・信教との緊張関係をもたらすことがない中立的な行為と理解することはできないことを論じてきました。
これに対する控訴審判決の判断は「卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,慣例上の儀礼的所作であって,それが直ちに宗教的行為又はその色彩を帯びる行為とまではいえず」(控訴審判決23頁)というだけで,こちらの問いかけを正面から受け止めた判断になっていません。
控訴審裁判所が,証人を採用することなく1回の口頭弁論で結審して,従前の最高裁判決に漫然と従った本判決に至ったことは,また、十分な審理を尽くさず,事案の本質を見誤ったまま判決を下したことが,控訴審の役割を放棄したものであって到底受け容れることはできるものではありません。
4 最高裁に向けて
今回の判決も,全体として,国旗国歌条項の目的について「国旗国歌に対して正しい認識を持たせ,それらを尊重する態度を育てることは重要なこと」と解し,卒業式等の意義について門学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛かつ清新な雰囲気の中で,新しい生活の展開への動機づけを行」う場と位置づけて,卒業式での国歌斉唱について「一般的,客観的に見て,これらの式典における慣例上の儀礼的所作としての性質を有する」という立場からの判断に貫かれています。
そこには,学校行事において一律の行為をすることは当然だ、国旗国歌を実施するのは当たり前だ,という裁判官の「常識」が前提にあり,また,なぜ懲戒処分を科してまで国歌斉唱を強制しているのかその目的や実態について黙過されたままになっています。
今回の判決は,回数による処分の加重を否定した点は一歩前進したと評価できるものではあります。
今後は,一連の最高裁判決の論理が誤っていることを論じて,どうしても起立できない人に対して懲戒処分という不利益を科すこと自体が許されないこと,最高裁判決の変更が必要であることを明らかにして戒告処分の取消を求めていくことになります。
『リベルテ(東京・教育の自由裁判をすすめる会ニュース)第51号』(2018年4月28日)
◆ 4次訴訟高裁判決を受けて (リベルテ)
東京「君が代」裁判4次訴訟弁護団 弁護士 平松真二郎
1 はじめに
2018年4月18日,東京高等裁判所第12民事部(杉原則彦裁判長)で東京「君が代」裁判4次訴訟の判決が言い渡されました。
結論は,戒告処分の取消及び損害賠償を求める一審原告らの控訴も,4回目・5回目の不起立に対する減給処分の取消を不服とする都の控訴も,いずれも棄却するというものでした。
一次訴訟についての2012年1月16日最高裁判決で,懲戒処分のうち「戒告」は裁量権の逸脱・濫用とまではいえないものの,「減給」以上の処分は相当性がなく社会観念上著しく妥当を欠き,裁量権の範囲を逸脱・濫用しており違法であるとの判断が示されて以降,都教委は3回目の不起立までを戒告とし4回目以降の不起立に対して減給処分とする取り扱いをしてきています。
今回の判決は,4回目・5回目の不起立に対する減給処分を「減給以上の処分の相当性を基礎づける具体的な事情は認められない」として取り消した原判決に対する都の控訴を棄却したものであり,不起立の回数が減給処分の相当性を基礎づける具体的な事情には当たらないとの判断を示したもので,回数のみを理由とした処分の加重を否定したものといってよいと思います。
一方で,国歌の起立斉唱の強制が違憲・違法であるとの一審原告ら教職員の主張については原判決を維持し,これを認めることはありませんでした。さらに,処分が取り消された一審原告ら教職員の精神的苦痛は慰謝されるとして賠償請求を棄却した原判決を維持しています。
2 事実認定の問題点
原判決は,減給以上の処分の取り消しを認めた結論はもちろん,その判断内容は2016年1月16日最高裁判決の多数意見の判断に沿ったものにとどまり,最高裁の結論に漫然と従った結論ありきの判断でした。
これに対して,一審原告らは控訴審においても,これまでの最高裁判決の多数意見の判断,結論に漫然と従って判断してはならないと訴えてきました。
特に,原判決は,「本件職務命令等が,国旗・国歌について一層正しい認識を持たせ,それらを尊重する態度を育てるなど国旗・国歌条項の趣旨を実現することに沿う正当なものであって,必要かつ合理的な範囲内の都教委及び校長の権限行使であった」(原判決92頁)などと、判示していますが,このような認定自体,本件通達やこれに基づく本件各職務命令を巡る諸事情を的確に把握することなく,都教委が描き出す欺瞞に満ちたストーリーに欺かれ,客観的事実経過に反する偏った事実認定となっていることを明らかにしてきました。
にもかかわらず,控訴審判決においても,学習指導要領について「地方公務員である1審原告らに対して法的拘束力が認められる法規としての性質を有する」(控訴審判決18頁)としたうえで「国旗国歌条項及びこれを含む学習指導要領に沿った式典の実施の指針を示し,生徒を教導する立場に在る教職員に対して慣例上の儀礼的所作としての起立斉唱行為を求める本件通達の目的は,いずれも合理的なものということができる」(控訴審判決16頁)と判断し,さらに「本件通達発出前においては,卒業式等において,会場に入場する教職員全員の起立斉唱行為を確保することができていなかったことが認められ」(控訴審判決17頁,19頁)と認定するなど,控訴審においても本件通達やこれに基づく本件各職務命令を巡る諸事情を的確に把握することなく判断がされています。
特に,通達発出の必要性を巡って「本件通達発出前において教職員の不起立があったか否か」,「その結果,卒業式等の円滑な進行の妨げとなる事実があったか」等は,いずれも争いのある事実であるにもかかわらず,証拠に基づかない事実認定がなされており弁論主義に反する判断であるといわざるを得ません。
控訴審判決も,文科省(文部省)や都教委側からの,日の丸・君が代実施についてどう考え,どう実施しようとしたかという一方的なスタンスにたって,法的判断(事実評価を含む)に有利な事実のみを恣意的に取り上げるという「先に結論ありき」の判断をしている点で,控訴審裁判所も「司法」の役割を果たしておらず,厳しい非難に値するというほかありません。
3 「儀式的行事における儀礼的所作」をめぐって
一審原告らは,国歌の起立斉唱行為について「儀式的行事における儀礼的所作」であって,個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものではないとする一連の最高裁判決について,儀式・儀礼はそれ自体宗教性と無縁ではなく,儀式・儀礼が強制されるとき個人の思想・良心・信仰と緊張関係を持つことを看過したものであることを論じ,さらに島薗進先生の意見書に基づいて最高裁判決の誤りを明らかにしてきました。
まず,儀式・儀礼は宗教の不可欠な要素の一つであって,固有の儀式・儀礼をもたない宗教を見出すことはできないのであるから,「儀式的行事における儀礼的所作」が宗教性と無縁であるとの認識自体が根本的に誤っていることを明らかにしてきました。
そのうえで,卒業式等における国歌の起立斉唱について「儀式的行事における儀礼的所作」であると捉えたとしても,政治性・宗教性が捨象された思想・良心・信教との緊張関係をもたらすことがない中立的な行為と理解することはできないことを論じてきました。
これに対する控訴審判決の判断は「卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,慣例上の儀礼的所作であって,それが直ちに宗教的行為又はその色彩を帯びる行為とまではいえず」(控訴審判決23頁)というだけで,こちらの問いかけを正面から受け止めた判断になっていません。
控訴審裁判所が,証人を採用することなく1回の口頭弁論で結審して,従前の最高裁判決に漫然と従った本判決に至ったことは,また、十分な審理を尽くさず,事案の本質を見誤ったまま判決を下したことが,控訴審の役割を放棄したものであって到底受け容れることはできるものではありません。
4 最高裁に向けて
今回の判決も,全体として,国旗国歌条項の目的について「国旗国歌に対して正しい認識を持たせ,それらを尊重する態度を育てることは重要なこと」と解し,卒業式等の意義について門学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛かつ清新な雰囲気の中で,新しい生活の展開への動機づけを行」う場と位置づけて,卒業式での国歌斉唱について「一般的,客観的に見て,これらの式典における慣例上の儀礼的所作としての性質を有する」という立場からの判断に貫かれています。
そこには,学校行事において一律の行為をすることは当然だ、国旗国歌を実施するのは当たり前だ,という裁判官の「常識」が前提にあり,また,なぜ懲戒処分を科してまで国歌斉唱を強制しているのかその目的や実態について黙過されたままになっています。
今回の判決は,回数による処分の加重を否定した点は一歩前進したと評価できるものではあります。
今後は,一連の最高裁判決の論理が誤っていることを論じて,どうしても起立できない人に対して懲戒処分という不利益を科すこと自体が許されないこと,最高裁判決の変更が必要であることを明らかにして戒告処分の取消を求めていくことになります。
『リベルテ(東京・教育の自由裁判をすすめる会ニュース)第51号』(2018年4月28日)