◆ "毛糸帽のマリア"平間正子さんに韓国人権賞 (労働情報)
神奈川シティユニオンの平間正子さん(81歳)が韓国人権賞に選ばれた。
平間さんは手で顔を覆い「恥ずかしい。まさか自分が……」と戸惑いを隠せない様子だった。
「特別な何かをやってきたつもりはないんです。誰かがやらなければいけないことをやっただけ」。我を忘れて、日本在住の韓国人出稼ぎ労働者の権利と生活のために奮闘してきた平間さんらしい返事だった。
平間さんが運動にのめり込んだのは、1989年に起こった韓国スミダ電機での解雇争議がきっかけだという。
解雇された労働者を代表して来日した4人の女性が、ハンガーストライキや歌や踊りで抗議行動を展開した。
「あの時は、休む間もなく朝も夜も動いていました。それまで日本ではなかった運動スタイルで全国から支援してもらった」
自分もリストラを経験したからこそ、その気持ちが理解できた。
平間さんは、当時、通訳だけとしてでなく母親役として身の回りの世話をし闘争を支えた日々を振り返る。
半年以上にもわたる韓国スミダ争議が解決すると、今度は「(横浜市)寿町で大変なことが起こっている」との情報に、韓国から出稼ぎに来て労災にあった同胞たちが、泣き寝入りをしいられている状況を知った。
当時は、オーバーステイの労働者が多くいた。
医療相談を通して上原功宏神父らとともに支援を広げられたのは、宗教者だからだろうと平間さんは語る。洗礼名「マリア」の名で親しまれ、どんな労働者でも安心して話ができる人として信頼を得た。以後、神奈川シティユニオンの村山敏委員長らとともに、医療支援を通して見えてきた労働問題に取り組むことになる。
「みんな誰にも吐き出せないことをたくさん抱えているんです。最初は精神的に張り詰めていても、話を聞くと表情が変わって笑顔になるの」。労働者たちが話を聞くだけで表情を和らげていく、その瞬間に生きがいを感じるという。
それはまた、「やってあげている」という意識ではなく、「このために生かされている」という平間さんの考えにもつながるだろう。
戦争を生き延びて飢餓を耐え、日本にいる恋人と結婚するために28歳で密航船に乗り込んだ。小さな漁船はエンジン故障を繰り返しながらもついに対馬に到着したが、33人の最後尾にいた平間さんが降りた途端に船が沈んだのを見た。
何十時間もの航海の聞、身体を屈ませて船底に隠れ冷たい海水に浸りながらも生き延びた、忘れもしない瞬間だ。
「だからこそ、安全な場所を目指して船で脱出する難民の気持ちがわかるんです」。平間さんは言葉をかみしめて続ける。「そしてあの時サメのえさにされず、生かされた意味が私にはあると思っています」
トレードマークの毛糸の帽子に木製のぞうりを履いたマリアは、今日も次から次へと訪れる韓国人出稼ぎ労働者の心を和ませている。
※平間正子さん
1937年済州島生まれ。65年日本へ再度密航。福岡入管で拘留されるも、日本人妻として認められたため、罰金刑のみで釈放され在留許可を得たあと東京へ。66年に結婚してその後4人の息子に恵まれる。
83年よリ川崎市内で上原神父らと在日韓国人労働者の支援にかかわりはじめる。90年には韓国スミダ闘争の支援を終え、以来、寿町界隈で外国人労働者の医療・労働問題の支援に奔走する。91年には「みなとまち診療所」設立に代表のひとりとしてかかわり、93年にその貢献が第2回田尻賞として表彰された。
『労働情報』(2017年12月号)
松元千枝(team rodojoho)
神奈川シティユニオンの平間正子さん(81歳)が韓国人権賞に選ばれた。
平間さんは手で顔を覆い「恥ずかしい。まさか自分が……」と戸惑いを隠せない様子だった。
「特別な何かをやってきたつもりはないんです。誰かがやらなければいけないことをやっただけ」。我を忘れて、日本在住の韓国人出稼ぎ労働者の権利と生活のために奮闘してきた平間さんらしい返事だった。
平間さんが運動にのめり込んだのは、1989年に起こった韓国スミダ電機での解雇争議がきっかけだという。
解雇された労働者を代表して来日した4人の女性が、ハンガーストライキや歌や踊りで抗議行動を展開した。
「あの時は、休む間もなく朝も夜も動いていました。それまで日本ではなかった運動スタイルで全国から支援してもらった」
自分もリストラを経験したからこそ、その気持ちが理解できた。
平間さんは、当時、通訳だけとしてでなく母親役として身の回りの世話をし闘争を支えた日々を振り返る。
半年以上にもわたる韓国スミダ争議が解決すると、今度は「(横浜市)寿町で大変なことが起こっている」との情報に、韓国から出稼ぎに来て労災にあった同胞たちが、泣き寝入りをしいられている状況を知った。
当時は、オーバーステイの労働者が多くいた。
医療相談を通して上原功宏神父らとともに支援を広げられたのは、宗教者だからだろうと平間さんは語る。洗礼名「マリア」の名で親しまれ、どんな労働者でも安心して話ができる人として信頼を得た。以後、神奈川シティユニオンの村山敏委員長らとともに、医療支援を通して見えてきた労働問題に取り組むことになる。
「みんな誰にも吐き出せないことをたくさん抱えているんです。最初は精神的に張り詰めていても、話を聞くと表情が変わって笑顔になるの」。労働者たちが話を聞くだけで表情を和らげていく、その瞬間に生きがいを感じるという。
それはまた、「やってあげている」という意識ではなく、「このために生かされている」という平間さんの考えにもつながるだろう。
戦争を生き延びて飢餓を耐え、日本にいる恋人と結婚するために28歳で密航船に乗り込んだ。小さな漁船はエンジン故障を繰り返しながらもついに対馬に到着したが、33人の最後尾にいた平間さんが降りた途端に船が沈んだのを見た。
何十時間もの航海の聞、身体を屈ませて船底に隠れ冷たい海水に浸りながらも生き延びた、忘れもしない瞬間だ。
「だからこそ、安全な場所を目指して船で脱出する難民の気持ちがわかるんです」。平間さんは言葉をかみしめて続ける。「そしてあの時サメのえさにされず、生かされた意味が私にはあると思っています」
トレードマークの毛糸の帽子に木製のぞうりを履いたマリアは、今日も次から次へと訪れる韓国人出稼ぎ労働者の心を和ませている。
※平間正子さん
1937年済州島生まれ。65年日本へ再度密航。福岡入管で拘留されるも、日本人妻として認められたため、罰金刑のみで釈放され在留許可を得たあと東京へ。66年に結婚してその後4人の息子に恵まれる。
83年よリ川崎市内で上原神父らと在日韓国人労働者の支援にかかわりはじめる。90年には韓国スミダ闘争の支援を終え、以来、寿町界隈で外国人労働者の医療・労働問題の支援に奔走する。91年には「みなとまち診療所」設立に代表のひとりとしてかかわり、93年にその貢献が第2回田尻賞として表彰された。
『労働情報』(2017年12月号)