法律を決めることができるのは国会議員(衆議院・参議院)だけです。
日本国憲法前文冒頭は、
「 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、我らと我らの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」
と始まり、憲法の最も重要な核を規定しています。
しかし、敗戦1年後(1956年4月10日)の戦後第1回総選挙(衆議院議員選挙)でも、戦前の公職選挙法の弾圧規定である事前運動と戸別訪問が禁止され、正当な選挙が行われませんでした。
1947年には沖縄に選挙法を施行しないと決め、さらに選挙運動の文書図画等の特例に関する法律」により公選法を改悪し、今日まで9万人以上の市民を弾圧しています。
「悪法も法のうち」 これらの弾圧法によって、敗戦後ようやく20歳以上の国民の投票権と25歳以上の被選挙権をあたえたものの、正当な選挙は実現していません。
選挙運動を厳しく制限した制度は、さらに文書面からも非常にはげしい制限をあたえ
戦後、再び選挙運動を弾圧し、さらに公職選挙法に供託金制度(高額であるとともに、1割得票しないと没収するという世界に類のない規定)や小選挙区制の法改悪、さらに改悪に改悪を重ね、イラク戦争に自衛隊を派兵し、それに反対するビラを配布した市民を、警察官は次々に逮捕し、検察官は裁判にかけ、裁判官も 日本国憲法第11条、第13条、第97条違反であるとともに第98条第2項で遵守義務を謳っている自由権規約第19条、25条で保障している参政権を保証市、侵害された人類普遍の基本的人権を救済せず、日本国憲法と世界人権宣言および国際人権規約違反の公職選挙法(文書配布・戸別訪問禁止規定)と国家公務員法(102条、人事院規則14-7,110条:一般国家公務員の市民的政治活動を、前面一律に禁止している)等によって、有罪としたのです。
私たち(言論・表現の自由を守る会)は、2008年、国連人権理事会にレポートを提出し、同年10月の自由権規約委員会第5回日本政府報告書審査に、ビラ配布弾圧6事件をレポートし、ロビーイングした結果、下記(※ パラグラフ26)の勧告を手に入れ、東京高裁において堀越明男さんの当然の逆転無罪判決を勝ち取りました。しかし、自由権規約第19条・25条違反を適用せず、しかも、のべ約200人の警察官が堀越さんらを尾行し盗撮した警察の犯罪を無視しました。
※ パラグラフ26.
委員会は、公職選挙法による戸別訪問の禁止や選挙活動期間中に配布することのできる文書図画の数と形式に対する制限など、表現の自由と政治に参与する権利に対して加えられている不合理な制限に、懸念を有する。委員会はまた、政府に対する批判的な内容のビラを私人の郵便受けに配布したことに対して、住居侵入罪もしくは国家公務員法に基づいて、政治活動家や公務員が逮捕され、起訴されたという報告に、懸念を有する(規約 19 条、25 条)。
締約国は、規約第 19 条及び 25 条のもとで保障されている政治活動やその他の活動を警察、検察及び裁判所が過度に制限することを防止するため、その法律から、表現の自由及び政治に参与する権利に対するあらゆる不合理な制限を撤廃すべきである。
いまだ個人通報制度(※※)を批准していないため、日本の裁判所では、国際人権条約違反を適用した判例が1例もなく、日本では法の支配はいまだ実現していないのです。
三権分立しておらず、いまだ人権鎖国状態です。
個人通報制度批准を求め、当会は2007年から外務省人権人道課木村課長、法務省国際室斉藤室長要請を開始し、要請を毎年繰り返し、2010年に人権人道課の中に個人通報制度を担当する条約履行室の設置を実現し、室長が就任していました。 しかし、第二次安倍内閣は、室長は課長に兼務させ、国連の人権尊重の取り組みに対し、完全に背を向け、積極的戦争主義を強行しています。
3・11後、日本国憲法を持ち、憲法第98条第2項を持つ日本においても、大阪府議会で維新の会が過半数の議席を占め、時油研規約第18条、19条及び20条違反の日の丸君が代条例を制定し、第2次世界大戦のアジアの侵略国である日本において、ナチスドイツの白バラ事件同様、再びファシズムが台頭してしまったのです。
凄まじい基地被害を受けている沖縄の人々の人権を守るためには、日本国憲法と国際人権条約の活用が不可欠です。
フクシマの核惨害によって難民とされた
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○昭和20年法律第42号
昭和20年8月15日太平洋戦争は、わが国の敗北をもってついに終結するに至った。
戦争の惨禍は、全国津々浦々におよび国民の多くは困憊の果に国家の将来の方向を知らず、再建への希望を失わんばかりであった。このような状勢下ではあったがわが国将来の政治の在り方を根本的に改め、日本の政治の民主化をめざして、衆議院議員選挙法の改正が行なわれたのである。
その眼目は、国民の自由な意志によって民意に直結する新しい代表者を選定するということにあった。
改正された事項
選挙権および被選挙権
昭和22年法律第42号は、選挙権の要件たる年齢を満25歳から満20歳に引下げ、
被選挙権についても満30歳から満25歳に引下げ、
かつ女子に対しても男子と全く平等に選挙権及び被選挙権を賦与した。
「ここにはじめてわが国の選挙制度は、男女平等の普通選挙制度となり欧米各国と同一の制度となったのである。」
議員定数…468人、ただし2人は沖縄県に対するものである。(山梨5人)
選挙区…原則として府県1選挙区とする大選挙区制、投票方法選挙運動…制限連記制
選挙運動…選挙運動に関する従来の制限は選挙の公正を確保するという美名の下にかえって弾圧と告発の選挙に終らせることになったばかりでなく、いちじるしい不自由を招来していた。過去の苦い経験にかんがみ、また民主主義の理念に基づいて、自由競争の下に国民の自由な判断に訴えるという趣旨で、選挙運動に関する各種の制限は思いきって撤廃され、罰則のごときもいちじるしく整理された。
しかし、戸別訪問および、事前運動の禁止規定だけは除かれなかった。
有権者数…選挙年齢の低下と婦人参政権の賦与と相まって有権者の数は一躍して3,680万人になり総人口の約50パーセントに達した。
○昭和22年法律第43号
選挙権…欠格条項を整理して、さらに選挙権が拡張された。
議員定数…沖縄には選挙法を施行しないこととして定数466人にした。
選挙区…再び現行の定数3人ないし5人の中選挙区制が採用された。(山梨5名、全県1区)
投票方法…単記無記名の原則に返った。
選挙運動…物資の極度に不足していた当時の社会経済情勢を理由に、
「選挙運動の文書図画等の特例に関する法律」制定により、敗戦後においても選挙運動の制度は文書面で非常にはげしい制限を受け、再び選挙運動を弾圧した戦前に回帰した。