◆ 不起立は教員の「個人の信念」なのか、「職務の専門性に基づく権利行使」なのか
『ひきつぐ会のメールニュース』を開いたのが、朝6時半くらいでしたので、そのままラジオのスイッチを入れ、放送大学「教員の非違行為と法」を聞きました。
東京女子大の坂田仰教授による、45分間の講義でした。
※科目の概要
http://www.ouj.ac.jp/hp/kamoku/H27/kyouyou/B/sinri/1528858.html
時間の半分近くを、国旗国歌「職務命令」違反の解説に当てていました。
「授業」ですので、確定した最高裁判決について独自の解釈を示すと言うより、解説する立場に終始するのはやむを得ないかと思います。
2007年のピアノ判決、2011年の一連の判決を、正確を期すように、間違いを指摘されないように、慎重に回りくどさもそのままに引用していました。
「職務命令」と「個人の信念」との関係に、一定の司法判断が確立した、というまとめです。
坂田氏は、この最高裁判決が、一般常識に添ったものであるとして、次のような譬えで解説しました。
「賭博は自由だ」という信念を持っている警察官が、「賭博取り締まり」を命じられて自らの信念に反するとして拒否する自由が認められるか、社会一般の規範等に照らして成立しないというのが当たり前で、最高裁の結論は当たり前のことを言っているのだ。
ただ、職務命令が合憲であることと、違反した教職員へどのような懲戒処分を行うべきかは別問題で、最高裁は原則として「戒告処分」としていることも付け加えました。
さらに、2012年の予防訴訟判決を、懲戒処分が反復継続的かつ累積加重的に行われ事後的に救済困難な不利益が生ずることを認め、事前に提起できるとした点で、注目に値する、としています。
「日の君最高裁判決」を、客観的に解説しようとすると、このようなものになる、という一つの事例ではあるでしょう。
でも、判決の射程を「職務命令」と「個人の信念」との関係だけに捉えて良いのでしょうか。
残念ながら、これでは中立を装った「国家主義教育」容認論です。
坂田氏の「教員」と「警官」における「職務」と「自由」の対比は、
「個人の信念」と「公共的職務」の関係では、一般的常識と言えても、
教育という仕事の「職務の公共性」と「公権力による教育への介入」という関係で見れば、全く別の価値判断になるという視点が、欠落しています。
また、そんな一般常識では当たり前の簡単なことと言うならば、それを言うのに最高裁はなぜ一般の人が読んだらちんぷんかんぷんのような理屈や文章をこねくり回さなければならなかったのでしょうか。
やはり最高裁判決は、一般常識からずれていると思います。
今日、法律雑誌などで展開されている若手憲法学者や教育学者による「日の君最高裁判決評釈」の新しい流れは、職務命令違反を憲法19条(個人の信念)だけで捉えるのではなく、生徒の教育権保障(公共的職務)から捉える方向です。
坂田氏の論述は、19条だけで最高裁判決を解説した、一時代前の学説なのではないでしょうか。
雑ぱくですが、感想まで。(H)
『ひきつぐ会のメールニュース』を開いたのが、朝6時半くらいでしたので、そのままラジオのスイッチを入れ、放送大学「教員の非違行為と法」を聞きました。
東京女子大の坂田仰教授による、45分間の講義でした。
※科目の概要
http://www.ouj.ac.jp/hp/kamoku/H27/kyouyou/B/sinri/1528858.html
時間の半分近くを、国旗国歌「職務命令」違反の解説に当てていました。
「授業」ですので、確定した最高裁判決について独自の解釈を示すと言うより、解説する立場に終始するのはやむを得ないかと思います。
2007年のピアノ判決、2011年の一連の判決を、正確を期すように、間違いを指摘されないように、慎重に回りくどさもそのままに引用していました。
「職務命令」と「個人の信念」との関係に、一定の司法判断が確立した、というまとめです。
坂田氏は、この最高裁判決が、一般常識に添ったものであるとして、次のような譬えで解説しました。
「賭博は自由だ」という信念を持っている警察官が、「賭博取り締まり」を命じられて自らの信念に反するとして拒否する自由が認められるか、社会一般の規範等に照らして成立しないというのが当たり前で、最高裁の結論は当たり前のことを言っているのだ。
ただ、職務命令が合憲であることと、違反した教職員へどのような懲戒処分を行うべきかは別問題で、最高裁は原則として「戒告処分」としていることも付け加えました。
さらに、2012年の予防訴訟判決を、懲戒処分が反復継続的かつ累積加重的に行われ事後的に救済困難な不利益が生ずることを認め、事前に提起できるとした点で、注目に値する、としています。
「日の君最高裁判決」を、客観的に解説しようとすると、このようなものになる、という一つの事例ではあるでしょう。
でも、判決の射程を「職務命令」と「個人の信念」との関係だけに捉えて良いのでしょうか。
残念ながら、これでは中立を装った「国家主義教育」容認論です。
坂田氏の「教員」と「警官」における「職務」と「自由」の対比は、
「個人の信念」と「公共的職務」の関係では、一般的常識と言えても、
教育という仕事の「職務の公共性」と「公権力による教育への介入」という関係で見れば、全く別の価値判断になるという視点が、欠落しています。
また、そんな一般常識では当たり前の簡単なことと言うならば、それを言うのに最高裁はなぜ一般の人が読んだらちんぷんかんぷんのような理屈や文章をこねくり回さなければならなかったのでしょうか。
やはり最高裁判決は、一般常識からずれていると思います。
今日、法律雑誌などで展開されている若手憲法学者や教育学者による「日の君最高裁判決評釈」の新しい流れは、職務命令違反を憲法19条(個人の信念)だけで捉えるのではなく、生徒の教育権保障(公共的職務)から捉える方向です。
坂田氏の論述は、19条だけで最高裁判決を解説した、一時代前の学説なのではないでしょうか。
雑ぱくですが、感想まで。(H)
パワー・トゥ・ザ・ピープル!! パート2